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静雄は眠りから覚めるなり、立ち上がった。いきなり身体を起こしたせいで眩暈が起こった。新羅が慌ててそれを制する。でもそんなことに構っている場合ではなかった。静雄はただただ一人のことばかり考えている。それは、きっと何年も前からのことだったのかもしれない。

「臨也はどこだ」

低い声で訊ねると、新羅が急に真面目な顔をした。妙な胸騒ぎがした。

「…新宿でまだ眠っているよ」

「そうじゃねえ」

新羅の言葉をはっきりと否定する。静雄は、その時新羅が目を伏せたのを見逃さなかった。嫌な予感が、急速に渦を巻いて静雄の心の中を埋め尽くす。静雄は低い声で呻いた。一体臨也はどうしたんだ、と重ねて問おうとした。しかし、その前に新羅が小さな声で言った。

「消えたんだ」

「…は?」

新羅の言葉は、静雄には聞こえなかった。聞きたくないと思った。焦れたように聞き返しておいて、その実、耳を塞いでしまいたくてたまらなかった。新羅が顔を伏せる。そして叫んだ。

「消えたんだ!」

静雄は、何も言えなかった。静雄の言葉を待たずに、新羅は呻くような声で言った。

「…いないんだよ」

辺りに重い空気が散らばる。その中で、ゆっくりと新羅の言葉が発された。

「臨也は、もう、いないんだ…」

静雄には新羅が泣いているように見えた。しかし、それを追求するような気分には、とてもなれない。いつの間にか静雄の目から零れていた水は、一粒だけ頬を伝ってそのまま、床へと落ちた。

静雄はどうしても臨也が消えたという事を信じられなかった。夢の中で微笑んだあの顔が、記憶の中にある憎たらしく笑った顔が、幻だとどうしても思えなかった。静雄は走り出した。新羅が何か行っているような気がしたけれど、無視して走り続けた。起きぬけの身体はふらつくけれど気にしている場合ではない。

――――なあ、こんな時に使えないなら、俺は一体何のためにこんな力を持って生まれたっていうんだ?

今まで感じたことのないくらいに身体に当たる風が強く感じた。痛んだ金髪が風に靡いて鬱陶しい。だけど、静雄は地を踏み抜く力を強めて、精一杯に走った。ずっと傍に居たというあの人間の存在を確かめるために。









ふと考え事をしていた。

臨也は目を瞑ったまま、身体から力を抜いてふわふわと浮かんでいた。目を瞑っているから今何処にいるのかすら分からない。

新羅のところから去ったはいいものの、これからどうしていいのかも分からない。消えたい。確か先程まではそう願っていた。今ですらその願いは変わっていないはずだった。それなのに、いざ独りになると怖くなる。消えたくないと思ってしまう。今度こそ存在が一片も残らず消えるかもしれない。こんなことを考えるくらいなら、こんな身体にならずさっさと死んでしまえばよかった。臨也は、いくじなしの自分を笑った。


起きろ。


死体の自分に、真剣な眼差しを向けてそう言った男を思い出した。あの身体の時には、死ね、と臨也に何度も言ってた男だ。それが必死な形相で生きろという意味の言葉を言う。ふ、と臨也は目を瞑ったまま笑った。それでも、次第に、臨也の顔は暗くなっていった。


起きろ。


起きろよ。


返事をしろよ。


叫ぶように言っていた。臨也は、確かにその声に返事をしたいと思っていた。でも届かない。あのときの気分に浸るには、まだ時が浅すぎた。何年後かにはそれも含めて笑える日が来るのだろうか。でも、臨也には時間が無かった。
天国に行けるなどとは思っていない。行けるに越した事はないが、きっと行く事はないだろうと感じた。行くなら地獄かと考えて、臨也は緩く首を傾げた。本当の地獄というのは何だろう。きっと、存在が消えることだ。それ以上に怖ろしいことなんて無い。もしも完全に存在が消えてしまったら、こうして何かを考えることも出来なくなるのだろう。静雄を思うことすら出来なくなるのだろう。そして、それを悲しいとも思わないのだろう。

誰かを介して静雄に何かを言えばよかった。確かに、伝えたいことがあったはずなのだ。

『シズちゃん』

縋る様に吐き出した言葉は伝えたい男にだけ届かない。きっと、その男にさえ届けばよかったのだろう。

『シズちゃん』

冷たいものが頬を伝う。自分にしか感じ取ることのできないそれを、臨也は拭うこともしなかった。おそらくもうすぐ消えるだろう。確証はなかった。しかし、何故かそうなるだろうと思えた。何処かから手を引かれたような気がした。臨也は抵抗することもなく身を委ねた。
できることなら最期にもう一度会いたかった。どういう感情であれ、何年間も執着して、傍に居続けたあの男に。
手を引く強さが増した気がした。何処かに落ちていくような気分だった。急速に、何処かに引っ張られ続けている。怖い、怖い、怖い。臨也はもう自分の中に巣食う怖いという感情を否定することはしなかった。それでも、助けを求めることはしなかった。きっと助けと一緒に、あの名前を呼んでしまうだろうから。

あと、自分の腕を引っ張るその手が、予想以上に暖かいと感じてしまったから。

本当は身体が重くてもう動けない。浮かんでいることすら出来なくなっているような気がした。もうあの世についたのだろうか。存在は消えていないようだった。しかし、臨也はそれに安心することはできなかった。
いつまで、こうして辛い思いをしていればいいのだろう。もしかしたら、永遠にだろうか。そう思うととても怖くて、臨也は、意味もなく足掻こうとした。でも、指一本動かすことも出来なかった。微かに身体を震わせた。とうに尽きたと思っていた涙が零れそうになる。普段ならきっとこんなに弱くはない。それがどうだ、今はもう、こんなに壊れんばかりになっている。あの折原臨也がだ。
そこまで考えて、臨也は思考を止めた。

――――俺を、俺と証明できるものって一体なんだろう?

ここに浮かんでいる自分は本当に、あの折原臨也なのだろうか。当たり前だ、そうに決まっている。でも、もし違ったら? 今まで使っていた身体はもう無く、何かに干渉することも出来ない。もしかしたら元の自分は全てあの身体の中にあって、今の自分はただの残骸なのかもしれない。それはそれでいい、新しい自分を愛して生きていこう。そう考えるのが、折原臨也のはずだった。

嫌だ、こんなの、らしくない。

臨也は泣きそうになっている自分を冷静に見つめて、認めた。きっとあの男が悪いのだと思った。だってそうだろう。あの男にさえ干渉できていれば、こんなに苦しむことも無かった。泣きたいと思うことだって無かった。自分の存在を疑う事だって、無かった。
もしかしたら発狂していたかもしれない。だが、それをしなかったのは、あの手のお蔭かもしれない。未だに臨也の手を握っているその手は、ともすれば泣いてしまいそうなほどに暖かい。本当はその手にすがり付いてしまいたくて仕方がないけれど、できなかった。その手のほうが、自分に縋っているように思えたからだ。


目を開けるつもりはなかった。でも、どうしても見たくなってしまった。自分は今何処にいるのか。あの手は、一体どのようにして、自分の手を握っているのか。










『シズちゃん』





「臨也」




縋るように手を伸ばした。握った。握り返されたような気がした。








返事が来たような気がした。










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