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□境界
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「アンタ、折原臨也?」

この界隈では中々の有名人であることは自覚していた。目の前には臨也の名を呼んだ人間も含め、およそ十代後半から二十代前半くらいの若者が十人ほどいる。その青年らは臨也よりも幾分か若く見えたが、臨也よりも体格で勝っているのも何人か見られた。顔に見覚えが無いわけではない。だからこそこれが明るい光景でないことが分かっていた。

「あのさ、どいてくれない?」

営業用の笑顔を浮かべるのも億劫で、莫迦にでも分かるくらいに冷めた声でそう言うと、青年達はみるからに苛立った様子を見せた。わりと横幅の広い路地だったけれど、道は一方通行だった。片方には複数の青年、もう片方には静雄がいる。今外の静雄に会いたくないという気持ちはどれほど追い詰められようとも変わらない。ナイフで適当に脅せば逃げるだろうと、臨也はコートのポケットに手を入れた。

「随分余裕だなアンタ。分かってんだろうが無事じゃ帰さねえ、ぜっ!」

ナイフを取り出す前に青年達が襲い掛かってきた。背後に隠していたらしい金属バットが臨也に迫る。大振りで隙がありすぎる動きだ。臨也は大した労力も無くそれを避けると青年達の群に潜りこんだ。中心を突破して逃げてやろう。そういう魂胆だったのだが、思ったよりも強い男がいたらしい。腕を捻り上げられた。普段なら腕をとられるなんて愚かな真似はしない。要するに油断していたのだ。

「…離してくれないかなあ」

臨也を掴んでいる男の腕は、臨也のそれの二倍ほどもある。
振りほどける見込みはなかった。臨也を取り囲んで嗤う男達の顔は、確かに見覚えが無いわけではない。しかしそれがどこで見たものなのかまで覚えてなどいない。一度確実に綺麗さっぱり忘れきっていたからだ。おそらく捨て駒にでもしたのだろう。適当に要求でも聞いて、満足させて帰ろうと思った。
臨也が口を開く前に、コートのボタンが解かれた。

「うっわ」

自分の首元を不躾に覗き込む複数の視線に、臨也は眉間に皺が寄るのを感じた。男の首元なんて見ても楽しくないだろうに、飽きもせずにやにやと笑いながら観賞している。男達が何を言いたいのかは分かっていた。若干首を傾けて男達の視線から庇うようにする。その反応すら楽しいのかもしれない。男達はモルモットを見ているかのような笑みを浮かべた。

「首元キスマークだらけってお盛んっすねーマジ。んで、その相手って女? 男?」

「っは! お前それ聞くのかよ!」

「いや、一番聞くべきとこだろそれ」

いかにも頭の悪そうな会話を目の前で繰り広げられて頭痛がした。臨也の腕を掴んでいる男もその会話に混じって笑っているが、力が緩む気配はない。静雄に比べれば赤子のような力だが、それでも常人にしては強いはずだ。

「てか、男に身体売ってるってマジで?」

その噂が、表社会ですら流れているのは知っている。別に今更驚くことではなかった。

「なんでそれが本当かどうか君に教える必要があるのかな?」

そう言って笑ってやると青年達は少し呆けた顔をしてからまた笑った。

「つーか、やっぱガチなんじゃねえの? コイツならありえるって」

「うっわきめぇ、変態じゃん」

「いや、俺はアリっちゃアリだと思うぜ」

「男のくせに股ユルユルってアリなのかよ」

下卑た笑いに対する抗議は特に無い。ここで黙っていたほうが面倒臭い事にはなりにくいだろう。人間の扱いには慣れているつもりだった。別に脳内の妄想で勝手に身体を弄ばれるのは構わない。そんなものに一々構っていられない、という方が正しいが。何にせよ臨也は早く帰りたかった。この辺りに居たくない。

「失礼しますよっと」

臨也の目の前にいた男が、コートの下の黒いシャツを捲り上げた。男達の口の端に常に浮かべていた笑顔が若干引き攣ったのが見える。無理もない。臨也の身体は異常なまでに傷だらけだった。キスマークと痣が交互に白い肌に浮かんでいる様は、まるで一種の病気のようだ。包帯とガーゼによってある程度隠されてるとはいえ、その傷が異常なものだということくらいは臨也を囲む青年たちにも分かるだろう。

「うわーこれDVってやつ?」

青年が覗き込んで問いかけているのには気付かないふりをしていた。少しばかり身震いをする。冬場の外気に素肌を晒すのは辛い。

「平和島静雄にやられたんじゃねえの?」

「あーそれなら有り得るわ」

「にしてもひでぇ傷」

傷をまじまじと見ながら青年達が言葉を発しあう。それが何処か他人事のように思えて仕方がなかった。掴まれ続けた腕に血が回らなくなってきた。指先が酷く冷たい。一際大きく浮かんだ痣に青年の指が触れる。不快感を覚えて蹴り飛ばそうとした。青年達が本来の目的を思い出す前に逃げ出さなければ。そう思って臨也は青年達が来た方向と反対の方向を見た。

「…え………」

微かに漏れた戸惑いの声は誰にも聞き取られなかったようだ。臨也は路地の先から目を離せずにいた。
見られている。驚いたような、怒ったような、形容しがたい表情の静雄に、見られている。一体いつから、なんて問うことも出来ない。多分ずっと見ていたわけではないと思う。今の静雄なら、きっと見なかったことにしてすぐに立ち去るはずだ。情けない事だが、静雄に今の姿を見られたくないと強く願っている。

――――はやく行ってくれ。

静雄の足が動いたように見えた。それ以上見ていられなくて、臨也は密かに目を閉じる。臨也の肌に触れていた青年の手が緩く動いて、肌が粟立ったが気にしなかった。ここから立ち去るための計画は後で立てればいい。とりあえず今は何も無かった事にしておかないと。
ごっ、と鈍い音がした。一瞬臨也はそれが自分に向けて放たれたものだと錯覚した。続いて意味不明な濁音が聞こえる。いつの間にか臨也を拘束する腕の力が無くなっていた。バランスを崩して誰かにぶつかった。

期待を、したくなかった。

異常な音が聞こえても目を開けなかったのは怖かったからなのだと思う。頭の中に色々なパターンを思い描いた。最初に浮かんでしまった理想を打ち消したかった。恐る恐る瞼を開く。落胆をしないように、なるべく最悪な光景を想像していた。
差し込んだ光が眩しい。薄暗い路地裏でも光って見えたそれは、臨也にとって太陽のような男だった。

「なにしてんだ、手前…」

誰に向けていったのかは分からなかった。静雄の手はいつの間にか臨也の腰に伸びている。その手があまりにも力強くて少し痛いと感じた。足元に転がる青年たちに、臨也はようやく気が付いた。それでも残っていたものとまだ立ち上がろうとしているものがいる。変な噂を立てられる前に早くここから立ち去らないと。大体助けに来たのだって、あまりに考えが足りなすぎる。静雄にもそう言おうとしたが、静雄は動こうとしなかった。まだ仕事中のはずだ。上司だって、後輩だって、此処まで探しに来るかもしれない。

「離して」

わざと突き放したように言っても、静雄は離そうとしなかった。そうしている間にも残った青年がバットを振りかぶる。静雄はそれを大した労力も無く一瞬で捻り潰した。思わず逃げ腰になる相手の胸倉を掴んでいる。

「…次、俺のもんに手出したらどうなるか分かってんだろうな」

睨まれた青年はいい年して今にも泣きそうな顔だ。返事も無く逃げ出すそれを、臨也は呼び止めようとした。今は恐怖のせいで大した思考力は無いかもしれないが、後々変なことを言いふらさないとは限らない。
辺りに見ている人間がいないことを確認して、一体何を言っているんだ、という目で静雄を見た。静雄は何やら呆けた顔をしている。

「何、言ってんだろうな…俺」

後悔しているのかもしれない。臨也が思うに、静雄は後先を考えることが出来ないタイプだ。そのことについて確かに呆れはしたけれど、助けに来てくれたのを嬉しいと思ったのは事実だった。仕方ないから後で噂を流されないように手回ししよう。それは臨也なりの恩返しのつもりでもあった。

「俺がこれからもずっと今までみてえに人目とか気にしてるままだったらさ、お前、俺から離れてくか?」

サングラス越しの目は真剣だった。なるべく重い空気にならないようにと茶化したような笑顔を浮かべる。

「そんなわけないでしょ、何年君のそれに付き合ってると思ってるのさ」

「…だよなあ」

静雄は臨也が離れていかないと確信しているようだった。別に間違っているわけではないけれど、臨也はどうも釈然としなかった。都合のいい奴だと思われてたりして、だなんていつになく後ろ向きな思考になる。静雄の性格上、そんなことはありえないのだけれど。
静雄が大きく溜め息をついた。煤けたコンクリートに寄りかかろうとしていたので、臨也はバーテン服が汚れるよ、と注意した。

「なんで俺、こんな片意地張ってるみてえになってんだ」

そんなこと知らないよ。そう言おうとしたがあまりに突き放したように聞こえるかもしれないので口には出さなかった。

「だからさ、そんなの気にしなくていいんだってば。知られたくないっていうのも当たり前のことだしね」

壁のしみを見ながら端的に言うと、静雄は黙り込んだ。言葉に詰まったようだった。ずっと掴まれている腰がそろそろ本当に痛い。それなのに酷く暖かく思えて、臨也は離すように言えなかった。上を見上げれば若干曇った空が見える。此処は確かに外なのに、どうして自分たちは相手を殺そうともせずに立ち止まっているのだろう。臨也にはそれが不思議に思えて仕方がなかった。

「お前が誰かと外でなんかやってても俺は止めることもできねえな」

「……さっき止めてなかったっけ」

少し呆れたように呟くと、静雄は何か合点がいったように、ああそうだった、と口に出した。もしかして忘れていたのだろうか。それから静雄は、そうか、とか、そうだよな、とか独り言を言っていた。静雄なりに何かが分かったようで、少し晴れやかな表情になった気がする。なんだか放置されているような気分になって臨也は静雄に話しかけようとした。

『―――先輩?』

臨也の言葉が発される前に誰かの声が聞こえた。静雄の後輩である女の声だと、臨也は瞬時に把握した。反射的に路地の外を見たが誰の姿も見当たらない。おそらく何処かで静雄を探しているのだろう。その声はそんなに遠くもなかった。

「シズちゃん、」

早く行かないと。そういう意味を込めて静雄を軽く押した。それなのに、静雄はびくとも動かない。臨也の腰を掴む手も動かない。

「いい」

静雄が、はっきりと口に出した。

「いいんだ」

確認するように静雄が再度同じく呟いた。静雄の手が動いたと思ったら臨也の肩を掴んで煤けた壁に押し付ける。服が汚れるってば、と、そう言おうとしていた。近づいた静雄の顔が思ったよりも真剣で何も言えなくなる。静雄の身体に隠れて、臨也からは路地の外が見えない。

「好きだ」

唇同士が触れた。それは初めて臨也が本当に静雄の全てを手に入れた瞬間だった。



end

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