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□君の
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「君の恋人が大変なことになった」

最初は悪戯電話かと思った。仕事の最中に携帯の着信音が鳴って、静雄は共に歩いていたトムとヴァローナに謝りつつ電話に出た。最初から電源を切っておくなり、マナーモードにするなりしておけばよかった。早くしないと仕事が滞ってしまう。そう思いつつ携帯を耳に当てたら言われた言葉が冒頭の台詞である。思わず苛立って少し荒い声で、わけわかんねえ、と返してしまった。実際訳が分からなかった。
恋人がいないわけではない、と思う。恋人か恋人じゃないのか曖昧なラインの関係を持った人間が一人だけいる。電話をかけてきた人物は、静雄とその人間の共通の友人だった。

「臨也が大変なんだよ」

電話の向こうでもう一度、相手が先程と同じ意味の言葉を口に出した。静雄は電話の相手が新羅だと分かっている。新羅の性格からして、一度悪戯か何かかと思った。しかしそうだと言い切るには、新羅の声があまりに真剣だった。今臨也は僕の家にいるから早く来て。自分勝手にそう告げて電話が切れてしまった。静雄は携帯の通話終了を押しながら、少しばかり悩んだ。

「どうかしたのか?」

心配そうに問うトムに、どう返そうかと思った。ありのままを告げればきっと、仕事よりそっちに行け、と焦って言うだろう。そんな迷惑をかけるわけにはいかない。臨也の件は仕事が終わった後では駄目なのだろうか。その考えが最低なことは静雄にも理解できていた。それでも静雄にとっては普通の対応だと思えるくらいの相手だったのだ。きっと他の、まともな人間相手だったら心配だって出来ただろう。言い訳じみた考えだった。
黙り込んだ静雄をヴァローナは感情の読み取れない目で見ていた。

「先輩の様子から分析。静雄先輩は用事を優先するべき、推奨します」

変に繋ぎ合わせた日本語で淡々と言われるのは妙な迫力がある。静雄はヴァローナに、心配すんな、と声をかけたが納得していないようだった。

「でも、なんかあったんだろ? 気にせず今日は休んで行ってこい」

ああ、結局迷惑をかけてしまった。静雄は眉を下げて二人に謝った。仕方が無いので今日は次の取立て先が終わったら、新羅のもとへ行くことにした。これで何とも無いようだったら殴ってやろうと思った。

今日は本当にすみません、と謝って仕事を抜け出した。幸い最後の取立て先から新羅の家は近かった。新羅の家のドアから薬品の臭いがして、そういえば新羅は医者だったと思い出した。臨也の身に、本当に何かあったのだろうか。そこでようやく少し何があったんだろうとは思ったけれど、心配だとは感じなかった。誰かに大怪我などを負わされる臨也が想像できなかったのである。
インターホンを押してから十数秒が経っていた。唐突にドアが開いた。中から現れたのは新羅だった。

「入って」

それだけ言って新羅が背を向けた。普段も歓迎されることはあまりないけれど、今日は特に挨拶も何も無かった。もしかして、それほど臨也の状態は酷いのだろうか。

「あいつ、怪我でもしたのか」

少しだけ、なんとなく不安になって問いかけてしまった。まさかそんなことあるはずない。脳内では確かに否定していた。心配もしていない筈だった。それなのにまるで途方にくれたような声が出たので、静雄は少し驚いていた。

「違うよ」

あっさりと否定された。仕方ないので静雄は他に考えられる可能性を探していた。例えば病気、とか。臨也は、生活感の無さや痩身なこともあって年中不健康そうな男だ。もしも臨也が重い病気で余命が三ヶ月しか無いなんて言われたら自分はどうするだろう。想像はできなかった。臨也が重病に罹っているという前提自体想像できないものなのだから仕方ない。
リビングのドアまでの時間が少し長く感じられた。そのドアの先に臨也はいるのだろうか。状態が酷いのなら奥で寝ているかもしれない。何にせよ静雄は、新羅がドアを開いた瞬間思わず目を逸らしてしまった。

「何してるんだい?」

呆れたような新羅の声が耳に入って、静雄はようやく前を向いた。部屋の中を見回そうとする前に、目当てのものは見つかった。それを見た瞬間静雄は、だまされた、と思った。臨也が大変なことになったと言われた。それなのに臨也は部屋の中央のソファに腰掛けて平然とした顔をしていたのだ。これは一体どういうことだと新羅か臨也を問い詰めようと思った。

「待ってよ、別に僕は君を騙したわけじゃないからね」

静雄の苛立ちを察知したのか、新羅が焦ったように言った。臨也はそんな静雄と新羅のやり取りを相変わらず冷めた目で見ている。臨也のその態度が静雄の苛立ちを最高潮にさせた。まだ何か言おうとしている新羅を押しのけて、荒い足音を立てながら臨也の元に向かった。胸倉を掴みあげると臨也は薄く口を開閉させた。そんな臨也を見て静雄はなんとなく違和感を覚えた。

「静雄、離して」

臨也の代わりだとでも言うように新羅が止めに入った。肩透かしを食らったような気分になって、静雄は大人しく臨也の胸元から手を離した。臨也が一つだけ咳をする。そしてまた何事も無かったような顔をした。気持ち悪い。そう思いつつ静雄は、新羅に促されるままにソファに座った。正面にいる臨也が静雄を見た。特に顔色が悪いようにも見えない。新羅が紅茶の入ったカップを三つ運んできた。

「新羅、こいつのどこがおかしいってんだよ」

嘘だ。静雄もなんとなく臨也がおかしいということには気がついていた。それでも自分が予想していた大怪我や大病などでは無さそうだったために妙に騙されたような気分になっていただけだ。直接臨也に聞けばよかったかもしれない。しかし臨也は特に口を開こうとはしていなかった。

「気づかないのかい?」

新羅が心底驚いたように
言うので、静雄は面食らってしまった。まるで気づかない自分がおかしいみたいだとすら思った。ちらりと臨也に視線を移したが、臨也は飽きたように窓の外に目をやっていた。その我関せずといった態度が尚更静雄を苛立たせた。

「おい、臨也」

低い声で呼んだが、臨也は微塵も反応しなかった。無視されている。自分は一体何か悪いことをしただろうか。確かに最近何度か喧嘩はしたが、いつものことだ。そんなに根に持つようなものでもないだろう。

「おい!」

苛立ちに任せて大声で叫ぶと、近くにいた新羅が五月蝿いとでもいうように肩をすくめた。それでも臨也は窓の外から視線を移さない。いっそ殴り飛ばしてやろうかと思った。腰を浮かしかけた静雄を抑えて、新羅は臨也の肩を軽く叩いた。ようやく臨也が振り向く。やはり何事も無かったような表情だった。

「…なんだよそれ」

「気づいた?」

完全におかしい。怒りは完全に消えて、後に薄気味悪さだけが残った。臨也はどうしてしまったのだろう。臨也は静雄の方を見ていたが、意思の疎通が出来ているとは思えなかった。どうしたんだよお前、と小さく呟いたが静雄はその言葉が無意味であると気づいていた。

「耳が聞こえないみたいなんだ」


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