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臨也は拍子抜けした。この普通では有り得ない、他人に感知されないだろうこの身体を使って存分に楽しもうとしていた。その筈だった。

「へえ、本当に透けるんだな」

まじまじとその身体を見られて、臨也は何となく身体を捩った。なんだか見世物にされている気分で不愉快だ。誰にも見られないで人間のありのままの表情を観察できると思っていたのに、これではまるで意味が無いどころか逆に注目されている。不機嫌さをそのまま現すように眉間に皺を寄せると臨也を観察していた男、門田が悪いと手を振った。

「いや、あんまり珍しいもんだからって、見すぎたな。悪かった」

『分かってくれたらいいよ』

そこでようやく臨也がいつも通りの笑みを浮かべると、門田はあからさまに苦笑した。その笑みが何を意味しているのかを想像すると、臨也は尚更楽しくなった。
これはこれでありかもしれない。そう思えてきた頃だった。透ける身体を見せると、当然だが誰でも驚いて目を見張る。その反応を見るのも中々悪くはなかった。ふふ、と口から堪えきれなかった吐息を漏らす。門田は苦笑を通り越して眉間に皺を寄せた。

「そんな状態だってのに、随分余裕なんだな」

そんな状態というのは、今話している臨也の状態のことか、それとも未だ寝室にある抜け殻のことか。そう聞こうと思ったけれど、門田にとっては、きっとどちらも同じものに違いない。臨也のように切り離して考えること自体がおかしいのだ。臨也は最早あの身体の事など微塵も気にしていない。ふわ、と浮かんでいることにも慣れた頃だった。

『まあこうなっちゃったものは仕方ないしね。楽しむしかないよ』

門田が溜め息をついた。

「お前らしいな。……にしても、幽霊ってのは誰にも見えないってのが定石じゃないのか?」

門田は一瞬だけ臨也の足元を見て不思議そうな顔をした。臨也の足は地面に着いていない。これはこれで幽霊の定石だろう、と臨也は思った。

きっと殆どの人間には見えないだろう。臨也は当初、門田と同じような考えを抱いて外に出た。池袋に行くつもりだった。もちろん床に足が着かないから電車には乗れない。仕方なく歩いていくことにしたけれど、これはこれで中々に爽快だった。意識すれば肉体が無い分普段よりも早く進めるし、障害物を気にする必要が無い。何より、疲れを感じることがなかった。
それで、調子に乗って五つほどの障害物をすり抜けた頃、臨也は自分の考えが間違っていた事を知った。うわあ、と情けない声をあげて後ずさる名前も知らない人間に、臨也はさすがに少し驚いた。そういえば先程まで人通りの少ない道を選んでいた。静雄から逃げるときの最短ルートだ。真っ青な顔をして強張るその人間も愛おしかったが、ただ、言われた言葉だけはどうにもいただけなかった。

―――――化物!

悲鳴のように臨也の耳を打った言葉は、かつて臨也自身が何度も放ったものだった。自分が人間でいたからこそ言えた言葉だ。ふむ、と眉を顰めて考え込む。腰の抜けたまま走り出す人間を追うことはしなかった。どうせその人間が誰かに話したところで頭がおかしくなったと思われるだけだ。
幸い池袋はもう目と鼻の先だった。そこには臨也の見知った人間が沢山いる。とりあえず誰かを探さなければ、と思ったがその必要は無かった。

「あれ、臨也さん。こんな時間に珍しいっすね」

自分よりも幾分背丈の低い少年を見て、臨也は気付かれない程度の溜め息をついた。すぐにいつも通りの笑顔を浮かべたら、少し嫌な顔をされた。彼が臨也を苦手としていることは臨也も知っていた。大分前に引き連れていた気弱そうな少年と眼鏡の少女は隣にいない。そのことについてわざとらしく訊ねてやろうかとも思ったが、生憎そこまで暇でもない。大体、今はそんな状況ではない。適当にはぐらかすと少年はあっさり去っていった。元々そんなに話す気もなかったのだろう。

昔駒として使った人間、仕事で懇意にしていた人間、一度だけ会ったことのある人間、果てには、名前も顔も知らなかった人間。
臨也は思いつく限りの人間に話しかけてみたが、全てに答えが返ってきた。つまり、全員、臨也が視えていた。

たまたま見かけた門田にも話しかけてみたが、当然のようにごく普通の答えが返ってきた。先程までに会った人間の中で、臨也がまともに事情を話してみようと思ったのは門田だけだった。当たり前のことだけれど、俺幽霊になっちゃったんだよね、といきなり切り出しても信じてはもらえなかった。それでも臨也が門田に触れてみようとさえすればあっさり信じられた。まあ、俄かには信じがたいという顔をしてはいたけれど。

「…大丈夫なのか?」

お人よしの彼は本当に心配しているのだろう。臨也は門田のその態度が、人間を愛しているという事を差し引いても、まあ、嫌いではなかった。このまま門田と話し続けるのも悪くはないと思っていたが、臨也にはそれ以上にしたいことがあった。

『やだな、俺を誰だと思ってるのさ。用事があるからそろそろ行くね、ばいばい』

普段より少し柔らかく微笑んで門田に背を向けた。彼がどんな表情をしていたのかは分からなかった。

人が多い場所はあまり通れない。流れる人を上手にかわせないと、肉体を持たないのが露見してしまうからだ。池袋の都市伝説を増やすのも面白いかと思ったが、自分自身を使ってまで作るのはさすがに不愉快だった。
臨也はある男を捜していた。いつもなら、絶対にそんなことをする必要はない。臨也が捜そうとしなくても、絶対に発見されてしまうからだ。いつもなら、仕事に支障が出るから会いたくないとすら考えていた。臨也は、いつもなら、とばかり考えている自分に驚いた。臨也はいつだって過去に囚われはしないように心がけていた。大体、この身体になったことに不満があるわけでもないというのに。

『…シズちゃん』

他の人間よりいくらか飛び出ている頭を見つけた。隣にはドレッドヘアーの男と金髪の少女がいる。臨也は足音も無くその背中に近づいた。

『シズちゃん』

先程よりも随分近い位置で呼びかけた。その声で臨也の存在に気付いたドレッドヘアーの男がぎょっと目を見開く。冷や汗を掻くその男の存在も、少し不機嫌な顔の少女の存在も気にすることなく、臨也は静雄の名前を呼び続けた。

『シズちゃんってば』

静雄は痛んだ金髪を何気なくかき回した。その頭が振り返ることは無い。ドレッドヘアーの男が怪訝そうな顔をして静雄と臨也の顔を交互に見比べる。その視線が痛かった。臨也は静雄の隣にいる二人に見えないように、隠れて静雄の背に触れた。何も掴めなかった。黙ってしまった臨也を、静雄以外の二人が疑問を浮かべた目で見てくる。そして、静雄はようやく臨也の方を向いた。

「静雄?」

「…いや、トムさんたちがさっきから後ろチラチラ見てるんで、何かあんのかと思ったんすけど」

――――何も無いっすね。


限界だった。
静雄以外の人間が、疑問の色を強めたけれどもうどうでもよかった。馬鹿だとか、死ねだとか、何でもいいから一言だけでも言ってやろうと思ったけれど言えなかった。そもそも言ったところで静雄には聴こえない。喉の辺りが締め付けられているように苦しかった。
障害物をすり抜けながら走る。誰かに見られていただろうけれど、臨也は気にも留めなかった。とにかくこの場から離れたいと思った。







『新羅』



「なんだい」



『ドタチン』



「なんだ」



『紀田くん』



「なんすか」



『波江』



「なによ」



『シズちゃん』



『シズちゃん』



『化物のシズちゃん』



『シズちゃんってば』



『シズちゃん』



『…ねえ、』











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