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□ロストレスポンス
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臨也は、自室のベッドの上で横たわる人間の顔を眺めていた。暗い部屋にいるせいで少ししか光の当たらないその顔は異様に生白い。臨也は暫くそれを眺めてから、疑問符を頭に浮かべて首を傾げた。仰向けで寝るその人間に見覚えが無いわけではない。しかし、こうして見るのは初めてだ。確か、鏡の中か写真の中でくらいしか見たことのない顔だった。
臨也は興味深そうに横たわる人間の身体に手を伸ばした。すかっ、と、まるで立体ホログラムでも触ったかのようにすり抜ける。まあこの展開は予想できていた。次に臨也は近くの壁を触ってみた。すり抜ける。感覚も無くただただ腕が通り抜けていくのをそのままに歩みを進めると、隣の部屋まで出た。なるほど、と臨也が頷く。ある程度の状況を掴むことが出来た。

『あー、あー…』

試しに声を出してみる。少なくとも自分には聞こえている。だがこの声が空気を震わせて、他の人間に伝わるかどうかは分からなかった。臨也は再び眠る自分のもとまで歩いた。その顔を見て臨也の頭には、ついに死んだのか、という無味乾燥な思いだけが浮かんだ。これが妄想でないなら、少なくとも存在は確立できている。ただその事に、少しだけ安堵していた。
誰かに伝えないとならない。そうは思ったが、当然電話には触れない。手を握ったり開いたりしてみたが、自分の指と手が触れ合う感覚はある。臨也は今、自分以外のものに干渉できなくなっているようだった。今だって、服すら身に着けていない状況だ。それでも寒くもなんともない。臨也には床を踏みしめている感覚すら無かった。実際に歩く度に足が床に沈む。

『どうしようかなあ』

溜め息と共に吐かれる声は随分と疲れていた。裸だから外に出ることも出来ない。もしかしたらありがちな設定の通り見えていないのかもしれないけれど、こればっかりは倫理観の問題だ。さすがに臨也とて羞恥心くらいは持っている。
途方に暮れかけたとき、臨也の耳に聞きなれた音が届いた。バァン、と何かが破壊される音。臨也は瞬間的に身構えたが、よくよく考えればその必要は無い。だってもうおそらく死んでいるのだから。

「出てきやがれ臨也ァ!!」

激しい足音が聞こえるが、その振動を感じることは出来ない。でも次第にここまで辿り着くだろうとは思った。臨也は敢えて自分から迎えに行くことはせず、ただ眠る生身の自分の横で息を潜めていた。
一番奥にあったこの部屋のドアが爆発音のような音と共に開けられる。蝶番が壊れていた。静雄は臨也を見るなり額に血管を浮かべた。彼は一体どの事について怒っているのだろう。最近も幾つか仕掛けたばかりだ。それが救いとなったのかどうか。

「おい!」

静雄は臨也を起こすように大声をあげた。真っ直ぐに歩み寄る静雄を見て、臨也はいつも通りの笑顔を浮かべる。いざとなればこの身体で応対する気だった。

「臨也!!」

いっそ、なあに、と答えてやるつもりだった。それよりも早く静雄は臨也の身体をすり抜けた。静雄には、臨也が見えていなかった。
背後で静雄が眠る臨也に向けて大声で怒鳴っている。臨也は振り向いてそれを冷めた目で見ていた。

「…おい、臨也?」

数分した頃くらいか、静雄の声音が変わりはじめた。怒りよりも戸惑いの様子が強く現れている。静雄は何度か臨也の頬を引っぱたいた。その行動から殺意は窺い取れない。勿論、何度叩いたところで臨也は起きなかった。静雄の顔が若干青くなったように見える。

「……おい」

来たときの怒りが微塵も感じられない呟きに、臨也は薄く笑みを浮かべた。探している人間は此処にいるのに、静雄は気づかない。どうしたって起きない臨也に、静雄は遂に混乱が限界に達したのか急に動きを止めてしまった。このまま硬直状態が続くんじゃないか。そう思うと臨也は笑いたくてたまらなかった。実際大笑いしたところで気付かれないのだろうけれど。
ふらりと静雄が手を動かした。自分のポケットの中を探っているらしい。そこから取り出されたのは携帯電話だった。

「おい、新羅」

思ったよりも落ち着いた動作で静雄が呼び出したのは、共通の知り合いである医者だった。静雄にしては随分妥当な判断だ、と思う。臨也にはそれが疑問だった。確かに放置するのはそれが臨也であっても静雄には無理だろう。だとしたら後先考えないままに担いで走り出しでもするかと思っていた。助けを求めるか、捨てるかは別としてもだ。
静雄は通話が終わった後、携帯電話を床に落としてただ臨也を見つめていた。あまり見つめられると、恥ずかしくなる。その考えが状況に合っていないとは理解していた。

家の外の通路を駆ける音が聞こえた気がした。そういえばきっと玄関の扉は外されたままだろう。

「静雄?」

静雄が電話をかけてから数分後くらいに新羅は到着した。少し息が乱れている。もしかしたら、静雄の声が普段と違うのを感じて、焦っていたのかもしれない。体力の無い新羅は、部屋に入ってから少し深呼吸をして、静雄のほうを向いた。そして、硬直した。

「………えっ?」

新羅はある一点を見つめたまま動かない。いや、時折別の方向にも視線を動かして、見比べている。新羅はあからさまに混乱した顔をしていたが、むしろ混乱しているのは臨也のほうだった。

『…見えてるの?』

「うわあっ!?」

思わず呟いた言葉に、新羅は見開いていた目を更に開いた。それによって臨也の疑いは確信へと変わった。

――――新羅には自分が見えている。

ちなみに静雄は新羅の驚きようを見て不思議そうにしている。なるほど、声すら聞こえていないらしい。臨也はそれが少しだけ不愉快だった。

『…ねえ、やっぱり俺死んでるのかな?』

口をぽかんと開けたままの新羅にそう問うと、彼は弾かれたように眠る臨也のもとに寄った。脈を計って呼吸をとる姿は確かに医者に見えなくもない、と思う。新羅はいたって真剣な顔をしていた。

「仮死状態、ってとこかな」

静雄に言ったのか臨也に言ったのかは定かではなかったが、臨也はとりあえず難しい顔をしておいた。生きてはいるのか。別に死んでいてもいいと思っていたのに、まだ生きていると知ると安心する。自分にも人間らしさは残っているらしい。今この状態を人間と呼んでいいのかは分からないけれど。
ふむ、と考え込んでいると、新羅と一緒に来ていたのかセルティが開いたドアを通り抜けてきた。首が無いから身体の向きで判断するしかないが、セルティは若干身体の透けた臨也を見るなり首から出ている影を勢いよく撒き散らした。驚いているのだろうか。もしかしたら幽霊を見るのは初めてなのかもしれない。デュラハンならこんな物いくらでも見たことがあると思っていた。

「あれ、セルティPDAは?」

新羅の言葉にようやくセルティは臨也から視線を外した。そしてあたふたと身体を探っている。

「あっ、ていうか臨也裸じゃないか! セルティの前なんだから隠してくれよ!」

言われなくても隠すに決まっている。そう思ってつい身体がある時のようにシーツを掴み寄せようとしてしまった。すかっ、と手がすり抜ける。臨也は自分の手を見てから、少し眉間に皺を寄せたあとベッドの陰に身を隠した。目だけを新羅たちの方向に向けると悪霊のようだと言われた。拗ねたように再び身を隠す。

「おい、お前さっきから誰と話してんだよ」

ああ、そういえばこの男もいたのか。臨也が視線を向けると静雄は見事に困惑したような表情を浮かべていた。状況についていけないのは当然だ、静雄には臨也が視えていないのだから。ついでに新羅も困ったような顔をしている。大方どう説明するか考えあぐねているのだろう。

「臨也と話してるんだよ」

考えた末に結局はありのまま言うしかないと思ったのか、新羅はストレートに事実を述べた。静雄の米神に血管が浮かぶ。ふざけるな、とでも言いたそうな様子だ。確かにこの言い方では新羅の頭がおかしくなったとしか思えないだろう。少なくとも自分だったらそう思う、と臨也は口元に手を当てた。笑いを抑えるためだ。
ああ、と新羅が閃いた様に手を打った。

「セルティ、君の影で臨也の服って作れないかい?」

臨也はベッドに隠れて首を傾げた。そんなに服を着ていないのが重要な問題なのか。仮にも自分は死にかけているというのに、だ。臨也は眉間に皺を寄せた。ベッドの脇を通ってセルティの影が臨也を包んで形を作る。細部こそ違っても、それは確かに臨也が愛用していたコートだった。

「どう、静雄? セルティの作った影だけでも見えない?」

「…見えねえ。あの辺でいきなり消えた」

あの辺、と静雄が指をさした場所は、確かに臨也の居るところだった。指でさされるのが不愉快で、臨也は身体を横にずらした。静雄の指は追ってこない。臨也は余計に不愉快になった。

「…そうか、そうだねごめん静雄くん、さっきのは僕達の見間違いみたいだ!」

『新羅!?』

思わず新羅に掴みかかる。もちろん触ることはできなかった。

「僕はあと少しだけ臨也の診察をするから、静雄君はもう帰りなよ」

「でもよ…」

「いいから。大丈夫、きっとすぐに目を覚ますよ」

「………」

新羅に背中を押されて、静雄は開いたままだったドアの外に出た。その時、一瞬、眠る臨也を見ていたような気がした。新羅は静雄が出た後のドアを閉めようとしていたが、壊れていて閉まらなかったらしい。こんな身体ではもう修理の人間すら呼べないと言うのに。それどころか、もう誰のことも呼べないかもしれない。

「臨也」

振り向いた新羅がはっきりと臨也を見た。身体が透けている、幽霊状態の臨也をだ。やっぱり見えてるの、と聞く必要はないようだった。

「大丈夫、見えてるよ。彼にはどうやら見えていないようだったから、あんまり動揺させないほうがいいと思ってね」

セルティも隣で頷いている。臨也は少しばかり安堵したように溜め息をついた。

『俺、今どういう状況なわけ?』

「生命力が低下したまま生きてる、だからさっき言ったとおり仮死状態ってところだね。何か毒でも飲んだのかい?」

『さあね』

そう言うと新羅はあからさまに困ったような顔をした。しかし、多分今一番困っているのは臨也だ。少し気を抜くと、ふわ、と浮かび上がってしまう。地面を踏むことが出来ないから、どこにも留まれない。臨也は、この世界に存在を示すことが出来ない。存在が消えていないことに安心はしたものの、本当にこれでよかったんだろうか。見るだけで何事にも関われない。それで、いいのだろうか。

「臨也?」

浮かび上がってしまった臨也の手を掴もうと新羅が手を伸ばしかけて、やめた。そして痛ましそうな顔をした。新羅は普段滅多にそんな顔を見せない。臨也は今非常事態が起こっているということを思い出した。

「君、これからどうするつもりだい?」

先程よりは落ち着いた表情でそう問いかけてきた。どうするか、なんて考えたこともなかった。こんな面白い状況、利用するほかにない。臨也は口の端を少しだけ吊り上げた。たとえ身体が無くとも、自分は変わりはしないのだと示したかったのかもしれない。ただの強がりだと思われないように、なるべくいつも通りの笑顔を浮かべるように心がけた。

『まあ、明日にでもいきなり目が覚めるかもしれないしさ。それまでこの状態を楽しむとするよ』

「…そっか」

臨也の言葉に、新羅が少しだけ安心したように思えた。隣にいたセルティは、特に何の意思表示もしていなかったのだけれど、一体どう思っていたのだろう。セルティは臨也に良い印象を抱いていない筈だった。臨也は横目でセルティの様子を窺ってみたが、特に変わってはいなかった。

首の無い死の妖精に、今、自分はどう映っているのだろう。臨也はそれだけが少し気になっていた。






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