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□PM3:00
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近頃、静雄の職場でインフルエンザが流行し始めていた。幸い静雄は頑丈な身体を持っていたので罹らなかったが、同僚の数名の体調が酷いらしい。うつしてもまずいし、無理に働くのは良くないだろうという社長の判断で今日は全員の仕事が休みになった。そんなに自由に休みが取れるような職業ではないが、そこは社長の配慮の結果なのだろう。健康なのに休む、ということに多少申し訳なさを感じたが、静雄は偶然の休暇を有難く頂くことにした。
そして、午後三時。休みの連絡を受けてから、静雄はもう一度眠った。自分が思っているよりも疲れが溜まっていたらしい。一つ大きな欠伸をして身体を震わせた。

「……あ?」

リモコンなどが置いてある机の上に、昨日までは無かったはずのものが有った。紙のようだとは分かったが、遠い上に薄ぼんやりとした視界では書かれている字までは読めない。目を擦ってその紙を拾い上げた。

『1/25 今日、臨也と会った。俺は記憶を無くしているらしい。』

意味を理解するまでに数秒を要した。数秒経っても意味が分からなくはあったのだけれど。
静雄は今日の日付を確認した。一月二十六日。つまりこのメモは昨日のものというわけだ。静雄にはこのメモが酷く気持ち悪く思えた。幾つもの矛盾点が生じているからだ。
まず、昨日臨也とは会っていない。そもそも静雄にとっては、臨也、という名前が随分と懐かしい響きのように感じられる。最後にあったのは確か臨也が新宿に拠点を移す前だったか。それから、静雄は臨也に会っていない。会う機会が無かったのだと思う。
次に、自分は記憶を無くしてなどいない。記憶喪失なんてそんな古典的な小説みたいな話、自分にあるわけがない。事実静雄は自分の名前も、此処がどこなのかも、しっかりと理解している。確かに数年前の出来事などになると思い出せないことはあるかもしれないが、ぽっかりとそこだけ記憶が無い、みたいなことはない。

まさか、何年も前のメモだろうか?

それが一番有り得る可能性だったが、それを否定してしまう材料が揃いすぎている。紙に黄ばみなどはない。インクの字も真新しいように見える。自分ではない誰かのものかとも思ったが、静雄はその字の筆跡に見覚えがある。紛れも無く、自分のものだ。
ピンポーン、と静雄の考えを寸断するようにインターホンが鳴った。なんてタイミングの悪い。静雄は行き場のない憤りをぶつけるようにがしがしと頭を掻いた。人前に出られる程度に身嗜みを整える。宅配便だろうか。静雄は特に相手を確認することもなくドアを開けた。

「やあ」

静雄は絶句した。開いたドアの前に立っていたのは、今まさに思い浮かべていた人物だったのだ。

「お前がなんで、ここに」

かろうじて声に出した言葉を聞くと、臨也は困ったように笑った。自嘲の笑みに、見えなくもない。

「とりあえずさ、入れてよ。積もる話もあるから」

目の前にいる男は静雄の知る数年前の姿と殆ど変わりはなかった。相変わらず身体の薄い奴だ。高校時代、これ以上無いくらいに嫌いあっていた人間を家に入れるわけがない。そう思いつつ静雄は臨也を家に入れた。普段ならば有り得ない。それでも、このタイミングで来るなんて、先程見つけた奇妙なメモと無関係である筈がない。そう思うと静雄は臨也を家に入れざるをえなかった。
臨也を家に入れるのはこれが初めてだ。臨也は部屋に上がるなり机を見下ろした。そして、先程まで静雄が見ていたメモを手に取った。

「これ、見覚えある?」

まさに、静雄が聞きたいことだった。生憎質問をしたのは臨也だったが、それによって理解することができた。臨也は、確実にこのメモと関係がある。この数年、忘れたことのなかったその男が、静雄を今真っ直ぐに見つめている。

「いや、今日の朝初めて見た」

正直に告げると、臨也は溜め息をついた。諦めの色が浮かんでいるようにすら見えて、静雄はそれに少し苛立った。今日の臨也は、何だからしくないような気がする。何年も離れていて、らしくないも何もあったものではないけれど。

臨也は携帯を見ていた。人が目の前にいるのに何事か、と怒りが沸点を超えかける。その手から携帯を取り上げようとした。

「この写真に、覚えは?」

臨也がそう言って見せてきたのは、一つの画像だった。そこに映っているのは、まさしく自分そのもので、静雄は再び驚愕した。おそらく数年前に撮ったものというわけでもないだろう。臨也は静雄にその画像の日付を見せた。一月二十五日。

「…なんでだ」

無意識に零れた言葉だった。眩しそうに顔を逸らしている画像の中の男が、本当に自分なのかと一瞬疑ってしまった。そっくりで済まされるようなものではないのに、だ。臨也は机の上に置いてあった静雄の携帯を手に取っていた。呆然としている静雄をよそに、臨也はその携帯を黙々と操作している。

「シズちゃん」

久しく聞いていないあだ名で呼ばれて、静雄は緩やかに顔を上げた。臨也の手には携帯が握られている。静雄の携帯だ。静雄はその画面を見て、臨也が二人いると錯覚した。画面の中の人物は、今の臨也と何もかも同じだった。当然のごとく表示される日付は一月二十五日だ。静雄はこれが夢なのではないかと思った。事実、目の前にいる人間は、静雄の夢に何度も登場している。

「…俺がおかしいのか?」

ぽつりと呟くと、臨也がふっと笑った。嘲りの笑みではなかった。

「これに似たやりとりをね、もう3日くらい繰り返してるんだよ。君は、いつを最後に俺と会わなくなったと思ってる?」

臨也がおかしくなったのだ、とはさすがに言えなかった。少なくとも臨也は人を騙すならもっと上手くやる。こんな誰も信じないような設定を自ら作るわけがない。昔から、臨也の嘘なら見破れる自信があった。それは今だって変わらない。

「お前が新宿に移ってからお前と会った覚えはねえ、と思う」

「…うん、やっぱりか」

臨也の顔が少し悲しげに見えた。今まで静雄が見たことのなかった表情だ。

「なあ、俺は記憶が無いのか?」

いつになく静かな声でそう問うと、臨也は少し黙ったあと目を逸らして頷いた。静雄は眉間に皺を寄せて目を瞑った。自分はおかしいのか、と思った。同時に、好奇心が涌いた。
ゆっくり目を開いて、映ったこの人間について、記憶を無くす前の自分はもっと知っていたのだろうか。会っていないと思っていた数年、本当は会っていたというのなら、一体どんな関係だったのだろうか。考え始めれば疑問は次々に浮いた。
静雄は物事をはっきりさせたいタイプの人間だった。静雄が思ったよりも冷静だったことに驚いているのか、少し重い空気のせいか、臨也の口数は少ない。

「臨也、お前のことを教えろ」

臨也が目を見開いた。これも静雄が初めて見る顔だった。一体臨也はどう返してくるのか。思いもよらない言葉を返されたら返されたで構わない。今は臨也の新たな一面を知りたいと思っていた。臨也が少し俯いてから静雄を見上げた。

「…まず、ご飯でも食べない?」




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