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□世界
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臨也の耳が聞こえなくなった翌日も、その翌日も、ついには一週間経っても臨也の聴力が戻る兆しはみられなかった。臨也は毎朝仕事に行く静雄を送り出しながら家事をしていた。別にもう静雄に世話をされなくても大丈夫だ。むしろ今は臨也が静雄の世話をしているに等しい。なんでこんなことしているんだろう。静雄を送り出して、家事をして、帰ってきた静雄を迎えて、家事をして、寝る。まるで主婦みたいだ。

「…、」

馬鹿みたいだと言おうとした口からは何の言葉も出なかった。出たとしてもおそらく聴こえないから感覚だけで判断するしかない。洗濯機を回してもテレビをつけても臨也の耳には何の音も届かなかった。
洗濯物を干し終えて臨也はなんとなくベッドに寝転んだ。冬は濡れた衣類が乾きにくい。コインランドリーにでも行こうかと思ったが面倒臭かったのでやめた。そういえばここ最近で外に出たのは新羅に診てもらうときくらいだ。そのせいで人と接することが極端に少なくなった。事務所から持ってきたノートパソコンで細々とした仕事はしていたが、やはり誰とも話せないのでは支障が出る。耳が聞こえなくなってから殆ど依頼は断っていた。
断ってばかりではいつか依頼は来なくなる。何しろ情報屋は信頼第一だ。情報屋が廃業したら何になればいいんだろう。最近はファイナンシャルプランナーとしても殆ど活動していない。いっそ本当に主婦にでもなってしまおうか。そう考えたら薄い吐息だけの笑いが零れた。
やることもないから、眠ろう。そう強く意識すると尚更眠れなくなってしまった。瞼を閉じていると色々考え込んでしまうのが人間の性だ。

――――なんで聴こえなくなったんだろう。

朝起きて、気がついたら布団を退ける音も足と地面が立てる音も聞こえなくなっていた。新羅に診てもらう限りでは声すら出ていないという。耳の付近を打った覚えは無かったし、新羅も耳に異常は無いと言っていた。

精神的なショックのせいじゃないかな。

新羅の言葉を思い出した。臨也にも心当たりが無いわけではない。あれがショックだったというならもうずっと昔から耳が聞こえなくなって、声も出なくなっているはずだ。大体自分はそんなに心は弱くない。どうしてこうなってしまったんだろう。
それでも静雄はさぞかし喜んでいることだろう。昔から静雄は臨也の話す言葉が大嫌いで、臨也だってそれを重々承知していた。だからといって黙ってやるものかと喋り続けていたけれど、さすがにこんなことになるとは思わなかった。大人しい自分と暮らすようになってから、静雄はいくらか温和になった気がする。それが嬉しいのか嫌なのか、臨也にはよく分からなかった。

とん、と肩に軽い衝撃が走った。

「…、……」

シズちゃん、と呟いたつもりだった。大きく普段よりゆっくり動く静雄の口が、た、だ、い、ま、と動く。臨也は傍らに置いてあった携帯を手にとって文字を打ち込んだ。前から携帯の操作は早いほうだったが、最近さらに文字を打つ速度が増した気がする。

『おかえり(^□^)』

使い慣れた顔文字は予測変換の最初に出てくる。別に楽しくなくてもなんとなく笑えてくるから不思議だ。今日の晩御飯は肉じゃがだ。和風料理はあまり作らない方だったけれど、静雄が好きだというのでわざわざネットでレシピを調べて作るようにしていた。そもそも普段は料理なんてしない。秘書が作ってくれるのを待つだけだった。臨也は先に作っていた肉じゃがを温め直した。本当に主婦のようだ。後ろから静雄が臨也の手元を覗き込む。静雄の髪が臨也の頬に触れた。
本当に穏やかな日々だ、と思った。
確かに臨也が喋らなければ静雄も暴力を振るおうとはしない。元々静雄は暴力の嫌いな男だった。代わりに思い出したように口付けをされることや、少し強めに抱き寄せられることが増えた。それはまるで本当に恋人のようで、臨也は何かを言おうとする気すらなくなってしまった。実際、耳が聞こえないままでも、話すことが出来ないままでも、これが続くならいいかとすら思った。まともに考えればいい筈はないのだけど、臨也は考えることを放棄しつつあった。

い、た、だ、き、ま、す。

律儀にそう言って、静雄は臨也が作った料理を食べている。臨也も心の中でいただきます、と呟いた。向かい合っていても眉間に皺を寄せず自分の料理を食べている静雄を見て、臨也はまるで別の世界にいるような錯覚をおこした。こればかりは一週間同じ事をしても慣れない。
臨也より随分早く食べ終わった静雄が臨也をじっと見ていた。臨也が視線に気づいて顔を上げると静雄はぱくぱくと口を動かした。

う、ま、か、っ、た。

臨也はまだ食事をしていたので、携帯を取り出すのが少し面倒臭かった。コップに入った水で口を湿らす。

あ、り、が、と。

単純な言葉くらいなら静雄も携帯なしで読み取れるようになっていた。臨也の言葉がしっかり伝わったのか、静雄は満足そうに頷いて食器を片付けに行った。静雄は満足そうだったけれど、臨也はあまり嬉しくなかった。静雄の声が聞けなくなって早一週間。まだ頭の中には鮮明に静雄の声が残っている。少しだけ肉じゃがを残して、食器を片付けることにした。

静雄が昔、お前の全部が大嫌いだ、と言っていた事を思い出した。それは恋人のような関係を始めるずっと前のことだ。

――――全部が嫌いだと言うわりに今は随分穏やかじゃないか。

まるで自分の全部は聞くことと話すことだけみたいだ、と思った。実際その通りだ、とも思った。ナイフを振りかざしてもパルクールで逃げ回っても、結局のところ普通の身体を持った人間でしかない臨也が静雄に一番対抗できるのは言葉だった。もしも最初から臨也が耳が聞こえなくて話せなかったら静雄もここまで臨也を嫌いはしなかっただろう。
でも、きっとこうやって恋人らしくすることはできなかった。
そう思わないと臨也は耐えられなかった。臨也の言葉で、こうやって関係を結ぶことができた。それは耳が聞こえなくなろうと声が出なくなろうと変わらない事実のはずだ。そうだ、臨也はずっとそう思っていた。臨也だって、こんな関係を始めるくらいには静雄が好きだった。だから静雄にも好きになってもらえるよう努力しようとしていた。

どうしたら好きになってくれる?

そう聞いたことを思い出した。それなのにそこからまったく思考が動かなかった。頭が真っ白になる。思い出すことを拒否しているようだった。別に記憶を失くしたわけでも忘れたわけでもない。ちゃんと覚えている。
どん、と少し強い衝撃を感じた。振り向くと静雄がなにやら焦った顔で口を動かしている。少し長かった。

『なに言ってるか分かんない(^□^)』

静雄の口の動きが読み取れなかった。読み取る気が起こらなかった。静雄はその後も何やら必死に口を動かしていたが、臨也には全く読み取れなかった。何度か繰り返した後、何かを思い至ったように走り去っていった。床に振動が伝わる。もし耳が聞こえていたら大きい足音が聞こえているんだろうなと思った。足に伝わる振動が再び大きくなる。静雄が戻ってきたようだ。そして臨也に何かを突き出した。

『なんで泣いてんだおまえ』

「…、っ」

顔文字も絵文字も何も無い簡潔な文章だったけれど、それを見せる静雄の顔はひどく焦っていたように見えた。五感の一つが消えると他の感覚が研ぎ澄まされるって言うのに、泣いていたことにすら気がつかないなんて。試しに頬を拭ってみたら確かに拭った手は濡れていた。
なんでもないと言いたかった。出ない声に苛立った。でもこれが静雄と臨也が望んだことだった。

『おれのせいか』

臨也に比べると静雄の文を打つスピードは酷く遅くて、漢字変換すらできていなかった。焦っているからかもしれない。話せないなら、せめてはやく泣き止まなければならない。そう思っているのに臨也の涙が止まることはなかった。

『君のせいじゃないから気にしないでいいよ』

無理な話だろうと思いつつ見せた。静雄は泣いてる人間を放っておけるような男ではない。それが臨也であってもだ。しかも今は静雄にとっておそらく弱いものだと認識されている。誰のせいでこうなったんだって言いたかった。静雄のせいではないと思っていたはずだった。
肩を何度か叩かれた。それでも臨也は静雄の方を見ようとしなかった。今コミュニケーションをとらないようにするのはひどく簡単だ。目を閉じてしまえばいい。耳を塞ぐ必要なんてない。ぐっと腕を掴まれた。上を向いた手のひらに何かが這う。むず痒い。

ど、う、し、て、お、ま、え、そ、う、な、っ、た、ん、だ。

手のひらに文字を書かれた。その文字の羅列を理解したくなんてなかった。そうなった、とは泣いてることを指しているのだろうか。それとも聴こえなくなったことを指しているのだろうか。どっちにしろ静雄のせいではない。少なくとも臨也はそう思っていた。静雄のせいではない、静雄のためだったからだ。

―――――例えば、話をしなければお前を愛せるかもしれねえな。

話をするために必要な機能といえばなんだろう。相手の言葉を聞き取ること、その言葉に対する返事を言うこと。それが臨也の導き出した答えだった。臨也は静雄の言葉に対して何でも返事をしたがった。静雄の言葉を一言一句逃したくなかった。黙れと言われても、黙ってやるものかと思ってた。でもそのせいで愛してもらえないなら。強制的に聞けなくすればいい。話せなくすればいい。それが多分無意識に臨也の見つけた正解だった。
朝起きたら耳が聞こえなくなっていた。話せなくなっていた。そのとき臨也は少しだけ、嬉しいと思った。
それなのに。

は、な、し、て、く、れ、よ。

君のためにやったのに。それが気に入らないからまた元に戻そうとするなんておかしいよ。そう叫んでやりたかった。文字を書ききった静雄の指が離れていく。代わりに臨也の身体全部が包まれた。苦しくて目を開けた。静雄が臨也を抱きしめた。耳に静雄の息がふれる。

「―――――」

聴こえないはずの声が聴こえた気がした。

シ、ズ、ちゃ、ん。

意味がないはずなのに何となく呟いてみた。自分を抱きしめてくる腕の力が強くなった。




end

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