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□聴こえない
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臨也は殆ど静雄の助けを必要としなかった。実際静雄は臨也の作った料理を食べて、臨也の焚いた風呂に入った。それどころか洗濯までしてもらった。静雄は臨也が家事が出来ると初めて知った。いかにも生活感の無さそうなこの男が、自分のために家事をしている。そう考えると静雄はなんとなく胸の奥が痒くなった。
今静雄は臨也と隣り合ってテレビを見ていた。見ているのはバラエティ番組で、中から芸能人の笑い声が聞こえる。そこまで面白くもなかったのでチャンネルを変えようとしたら、誤って音量のボタンを押してしまった。押しっぱなしだったのであっという間に耳を刺すような大きな音が流れてきた。煩い、と静雄は咄嗟に音量を下げたが、臨也はやはり眉一つ動かしていなかった。つまらなそうにテレビを見ている。そういえばこんなに静かに臨也の隣にいられたのは初めてだった。

「…ずっとこのままでいればいいのによ」

テレビを見たまま、なんとなく呟いてみた。臨也にはどうせ聴こえていない。普段だったらきっとどんなに小さく呟いても勝手に聞き取って、苛立たしい言葉で返すのだろう。それなのに今は臨也の見えない場所に立てば何を言っても気づかれない。
静雄は臨也がテレビを見ているのを確認して少し大きな声で言ってみた。

「ノミ蟲」

当然、反応は無い。臨也は平然とした顔でテレビを見ている。あまりにもその表情が変化しないので、静雄は無視されているようだと少しだけ思ってしまった。一度そう思ってしまうと、一々苛立ってしまう。

「臨也!」

つい大声で叫んでしまった。臨也の顔はそれでも変わらなくて、こうなったら強引に振り向かせてやろうと肩を掴もうとした。その瞬間に壁がどん、と一つなった。隣の住人だ。もう夜になるのに大きな声を出したら迷惑に決まってる。怒りが萎んで特にこれ以上何かしようという気にもなれなかった。

「なんか無視されてるみてえ」

負け惜しみのように呟いたら、臨也に肩を叩かれた。臨也はテレビを見ていない。静雄の方をじっと見ていた。

『君だって俺の話聞こうとしなかったくせに』

その顔が思っていたより真面目で、静雄は怒ることもできなかった。だからといって温和に返すことなどもっと出来るはずがない。要するに静雄は答えを持っていなかった。もしかしたら臨也は答えを望んでいないのかもしれない。静雄には臨也の言葉が訴えのように感じた。

『なんてね(^□^)』

臨也はすぐにいつも通りの笑みを浮かべて再びテレビに視線を移した。誤魔化そうとしているということは静雄にだって分かる。それでも追求する事はできなかった。
臨也の話なんて大半が聞かなくてもいいことだ。そんなものまで一々聞いてなどいられない。臨也だってそのくらい分かっているはずだ。徹底的に無視しないだけましな方だろう。いくつも不満が浮かんだけれど臨也に言う気にはなれなかった。どうせ聴こえないのだから。
臨也に肩を叩かれた。まだなにか訴えたいことでもあるのか、と若干憤りを覚えながら振り向く。その瞬間に触れるだけの小さな口付けをされた。

『したかっただけー』

悪戯に成功した子供のように口の端を吊り上げていた。そういえば前にも何度か同じことをされた。携帯の画面に表示されていた文字は、その時の臨也の台詞とまったく同じだった。そのせいで勝手に脳内で再生される臨也の声。もう長く聞いていないような気すらしたのに、その声は耳元で囁かれているような気すらした。そう思うと臨也が喋れないことが尚更嘘のように思えた。
本当は聴こえているんじゃないのか。
本当は話せるんじゃないのか。
言葉には出さなかった。臨也相手でもさすがにそれを言うのは憚られたからだ。普段なら疑いの言葉くらい簡単に言えるのだけど、自分は今おそらく臨也を哀れんでいる。弱い者に抱く感情。それを臨也に言ったら憤死するんじゃないかと少し思った。

「なんでお前そうなったんだ?」

お前、と言いつつその言葉は殆ど独り言だった。隣からカチカチとボタンを押す音が聞こえて、口の動きを読んでいたのだと知る。こういうときだけ反応するのだから臨也らしい。

『やっぱり分からないんだね』

臨也は携帯の画面をこちらに向けるだけで、静雄の方を見ようとはしなかった。分かるはずがないだろうと言ってやりたかったが、言えなかった。臨也が完全にこちらを向こうとしない。おそらく静雄が今何を言っても臨也には伝わらないのだろう。臨也が静雄の方を見ないとコミュニケーションはとれない。その重さを、静雄は今になってようやく理解し始めた。





「シズちゃん、俺のこと好き?」

「好きじゃねえよ」

「…じゃあ、どうしたら好きになってくれる?」

「あ? …そうだな、例えば―――――――」




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