Novels

□望郷
5ページ/6ページ

陳留へ来て、既に三月が経っていた。
蔡エンはいつも窓辺で本を読み、曹操から託された仕事をこなしている。そして時折ぼうっと外を眺めては、溜息を吐いていた。
「蔡エン様、吉報にございます」
そう言い、一人の侍女が蔡エンの元へやって来た。
「曹操様が、劉豹を討伐なさったそうです。宜しゅうございましたね。これで貴女様の十余年も報われるというものです」

―劉豹は、死んだ。
彼以外の匈奴も、その殆どは戦死したのだと言う。そして匈奴達の物であった土地は、曹操が開拓を進めるのだと侍女は言った。

―あの景色も、姿を消してしまうのか。
この地の様に、私の見知らぬ姿へと変わってしまうのか。

何故人は全てを移ろわせてしまうのだろう?
何故私から奪うのだろう?

私の、心拠る場所を―。


―ぱたり。
一粒の涙が蔡エンの頬を伝い、読み掛けの本に沁みて行く。
驚いた。涙は、既に涸れた筈であるのに。それなのに、止まらない。
気が付けば、蔡エンは大声を上げて泣いていた。声が涸れていたなど信じられぬ程に。それは匈奴に囚われ、毎日泣き暮らしていた時のそれと、とても良く似ていると思った。


―私の故郷は何処に。
私が心に描き、帰りたいと望んだ、
あの故郷は、何処に…―。



―郷ヲ、望ム―



→→→
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ