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□望郷
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翌朝。劉豹の言葉通りに曹操の使者がやって来た。使者に導かれるままに蔡エンは馬に乗り、故郷へと走り出す。規則正しく蹄の音が響く中、彼女はふと後ろを振り返った。
眼に映るのは果てない原野、何も遮るものの無い、天と地の境界…。もう終生見ることは無いであろう、匈奴の地―。
「―どうなさいました、蔡エン殿?」
馬を止め、来た方を振り返ったままの蔡エンに気付き、使者が不思議そうに尋ねて来た。
「いえ…。ただ、綺麗だと…思ったのです」
「かような蛮族の地の、何の美しいことがありましょうか…。私には理解しかねますが」
「…そう、ですね…」

それ以降、蔡エンは口を開こうとしなかった。使者が「漢に入った」と言っても、それは同じであった。
やがて許都へと入り、蔡エンは曹操に謁見した。曹操は蔡エンの帰還を喜び、様々な書物と共に、彼女の生まれ故郷・陳留に邸と、そこに仕えさせる侍女を与えると言う。
「これまでの十余年…さぞかし不遇なものであっただろう。だが私は無能なる匈奴共とは違う。今後は我が下で、存分にその才を活かせ」
「私には勿体の無い御言葉…痛み入ります」
厚く礼を言い、蔡エンは曹操の前を辞した。曹操は許都に一泊してはどうかと言ったが、彼女はすぐに陳留へと発つことを望んだ。どうしても、今すぐに陳留が見たいのだと言って。

「―見えて来ましたよ、蔡エン殿」
先頭を行く従者が、自分の後ろを行く蔡エンにそう告げる。その言葉に従者より前へと出た蔡エンは、言葉を失った。
「どうです?素晴らしいでしょう。この十年で、陳留も随分と発展したんですよ」
従者は喜々とした声で言ったが、それは蔡エンの耳には届いていなかった。

―時が、経ち過ぎていた。
今彼女の眼前にある陳留は、最早彼女の知る故郷では無くなっていた。
山陵は消え、江は元の流れを違え、平原には幾つもの民家や店が建っていた。まるで許都を思わせる様な…そんな都市へと変わってしまっていたのだ。
「どうかなされましたか、蔡エン殿?」
蔡エンが黙っているのを不審に思ったのか、従者が気遣わしげに尋ねる。
「何でもありません…。行きましょう」
そう言うと、蔡エンは先に馬を進めた。陳留に入っても、何処か知らぬ土地に来た様な感覚しかしないのが、何とも哀しかった。

着いた邸は小高い丘の上にあり、蔡エンと数人の侍女達が住むには勿体無い程に立派なものであった。
最初に邸に入った蔡エンは、吸い寄せられる様に窓辺へと向かう。そこから見えるのは、果て無き地平でも、山陵でも無い。犇く人、人、人…それから民家、店…。
「―蔡エン様っ!?」
後から入って来た侍女が、慌てて蔡エンの元へ駆け寄る。蔡エンはぐったりと窓際に倒れていた。そして意識を取り戻さぬまま、三日三晩眠り続けた…。
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