Novels

□望郷
3ページ/6ページ

「―お前と過ごすのも、今日で終いだな」
それは前の晩から、一月程後のことであった。いつもの様にやって来た劉豹が、突然そう言い放った。
「今日で終いとは…私は死でも賜わるのでしょうか?」
―だとしたら、本望だ。
しかし劉豹はゆっくりと首を振った。
「許都の曹操から使者が来た。お前を貰い受けたいそうだ」
「曹操様…が…?」
曹操は蔡エンの父・蔡ヨウと多少の親交があった男だ。曹操は蔡エンの才を高く買い、自らの下で使いたいのだ…と、使者は言ったと言う。
「『帰りたい』と叫び続けた甲斐があったな。お前の想いが、漢へ届いたらしい」
「私が…漢に…」
「どうした…嬉しくないのか?」
「いえ…しかし…」
嬉しくない訳が無い。あれ程望んだ故郷に、帰れるのだから。
だがこの時蔡エンの中には、一つの蟠りがあった。その正体が何なのかは、彼女自身にも解らなかったが…。
「…私は、帰れません」
「何!?」
予想だにしない蔡エンの言葉に、劉豹は眼を剥いた。そんな彼をじっと見詰め、蔡エンは静かに口を開く。
「子が居ります。二人ともまだ幼い…。側に、居てやりたいのです」
愛した男の子ではなくとも…自分の子は愛しいと思う。だからこの地を離れるのは、子と別れるのは嫌だ、と…。蟠りの正体をそう結論付け、蔡エンは無理矢理自分を納得させた。
しかしそんな彼女の想いとは裏腹に、帰って来た劉豹の言葉は冷たいものであった。
「あれらはお前の子であってそうでない。漢人の母親など、匈奴の戦士達には要らぬ」
「そんな…!我が子をこの地へ置き去りにして、一人故郷へ帰れと仰しゃるのですか…!?」
「そうだ。もうお前になど用は無い」
言い放つと、劉豹は蔡エンに背を向けた。その広い背を見詰めながら、蔡エンは静かに問うた。
「…何故です…?」
劉豹が振り向いた。必死で笑いを堪えていた。
「…何故、だと…?」
堪え切れず、劉豹は笑い出した。何がそんなに可笑しいのか、彼は暫く笑い続けていた。そして息が整った所で、漸く彼女の問に答える為に口を開く。
「決まっている。お前が価値を無くしたからだ、エン」
「価値…?」
「そうだ。見ろ」
そう言い、劉豹は自らの懐に手を入れた。出て来た手から何かが床へと零れ落ち、ちゃらちゃらと音を立てる。それは蔡エンが久しく見ていない、漢の銭であった。
「曹操がお前の代わりにと寄越したものだ。これだけでは無い。数々の武具も、装飾も贈られて来た。これがお前の価値だ、エン」

―解らない。
劉豹の言葉の意味が、蔡エンには解らなかった。否―…認めたく、無かったのかも知れない…。

「お前は良い金になったぞ、エン。だが…これ以上お前に居られては、我等が曹操に睨まれる。最早お前は邪魔でしかない」
「では私は…売られる為に…?」
「当たり前だ。でなければお前の様な穀潰し、誰が置いておくものか。…まぁ、それも今日限りだ。迎えは明日来る。早々に失せろ。一人で、な…」
それだけ言うと、劉豹は部屋を出て行った。蔡エンは何も言えぬまま、ただその背を見送っていた。自らの頬を伝うものの存在に、気付かぬまま…―。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ