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□望郷
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「…エン」
不意に名を呼ばれ、蔡エンは少しばかり月から眼を背けると、眼の端に声の主を捕らえた。声の主は男。南匈奴を纏め上げる左賢王・劉豹である。この男が、蔡エンをさらった張本人であった。
「眠れぬのか?」
「いえ、ただ…今宵の月を愛でていたのです」
「ふん、月など…。そんなものを見たところで戦には勝てまいし、腹も膨れまいに」
嘲笑うかの様に言った劉豹に、蔡エンは心中で侮蔑の言葉を返した。―無骨な男め。風情を解することも叶わぬ野蛮人め…と。しかしそんな彼女の心に、劉豹は気付くべくも無い。
「…最近は泣き叫ぶことも無くなったな。故郷への想い、断ち切れたか?」
「…まさか」
そう言い、蔡エンは劉豹の方を見た。
「…理由など、聞かれるまでもありますまいに。流す涙も、叫ぶ声も…私は疾うに失いました」
「声を失った、か。ならば歌う声はどうだ?」
「歌…?」
予想外の劉豹の言葉に、蔡エンは思わず驚きの声を上げる。
「そうだ、歌だ。お前になら容易かろう、エン?」
「…これは面妖な。月の魔美にでも憑かれましたか?」
皮肉を込めた蔡エンの言葉に、劉豹は眉を顰めた。しかしすぐにそれは消え、口許には薄く笑みが浮かぶ。
「…そうかも知れぬな。とにかく歌え、エン。今はお前の歌が聞きたい」
そう言い、劉豹は瞑目した。蔡エンはまた視線を月に戻す。
月は、何処で見ても同じく輝いている。漢の地でも、この匈奴の地でも。
ならば…月に歌えば届くのだろうか?彼の地へ。自らが想って止まぬ、漢の地へ―。
そんなことを思いながら、蔡エンはゆっくりと口を開いた。そこから紡がれて行くのは、漢土の広大さ、山陵の美しさ、江の偉大さ…。哀しくも美しい響きに満ちたそれは、蔡エンの、月へと捧ぐ、望郷の歌…。

「…もう良い」
静かに聴いていた劉豹が、突然歌を遮った。蔡エンが歌うのをやめると、劉豹は彼女を後ろから抱き竦め、こう問うた。
「漢に帰りたいか?」
蔡エンは静かに瞑目した。
自身を捕らえる劉豹の腕が、苦しい。それは、息が詰まってしまう程に…。

―あぁ、このまま。
いっそ死んでしまえたら。
身はこの地に朽ち果てようとも、心だけは漢へと帰れると言うのに―。

しかしそれが叶わぬ願いであること位、蔡エンには良く解っていた。
「…勿論、です。故郷を想わなかった日など、ありませぬ…」
蔡エンを締め付ける腕に、ぎりりと力が籠った。蔡エンの顔が苦悶に歪む。しかし声を上げるのだけは堪えた。それは彼女なりの、劉豹に対する精一杯の抵抗なのかも知れなかった。
「…返してはやらぬ」
そう劉豹は言った。
「決して…漢などには返してやらぬ」
勝ち誇ったかの様な声で言い、劉豹は笑った。憚ることなど一切知らぬ、無粋な笑いであった。そんな笑いを耳元で聞く蔡エンは、人知れず唇を噛み締める。

―私は、お前の物ではない。
そう叫びたくなるのを、蔡エンは必死に堪えた。
自分にそんなことをする資格は無いと思った。この十余年…劉豹の側女という立場を、甘んじて容れて来た自分には。
しかし好きでもない、ましてや自分が“野蛮人”と蔑む男に抱かれるなど…その苦しみは余人に計り知れたものではない。例い既に子を二人生したとは言え…それは決して、愛あるが故のことではないのだから―。

鎖の如き抱擁を解くと、劉豹は寝台へと向かった。蔡エンは無言で彼に従い、その身を寝台に横たえる。
この先はもう決まっている。彼女はただ静かに瞑目した。

―それは、長い、長い、夜の始まり…―。
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