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□ある、春の日に。
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長く降り続いていた雨が、今朝漸く上がった。とは言っても、未だ空はどんよりとした鈍色、立ち並ぶ木々からは涙の様に雫が滴っていて……こんな庭に出ようなどと、誰を誘っても首を縦に振る訳が無かった。
重ねて周りからは、「絶対に今の庭園になど出てはなりません」と釘まで刺されてしまった。素直な性格の曹植であるから、こう言えば諦めるに違いない…と、近侍は考えていたらしい。だが、
「きっとすぐ、晴れるのになぁ…」
そう独り言つ曹植は今、城の庭園に居る。こっそりと城を抜け出して来たのだ。まさか曹植が脱走などを企て、更に実行に移すなど、近侍は夢にも思わなかったのだろう。見張りは只の一人もいなかった。
もっと曹植が幼かった頃、同じ様に曹彰が何かで城からの脱走を企てたことがあった。その時は城内を歩く者皆見張りという程の厳戒体制であったのに、この差はどうだろう…そう思うと、曹植は何とも可笑しい気分に駆られる。
近侍は皆勘違いをしている様だが、曹植の素直さは専ら自身に対してのものだ。ただ人当たりが柔らかく、兄の曹丕とは正反対であるからそう見えるのだろう。曹植にだって、我儘を押し通そうとして母に窘められる…なんてことはままあるのだ。

ゆっくりと歩を進めながら、曹植は庭園を散策した。散策とは言っても、別段何か新しいものが見つかる訳でもない。しかし詩に詠むべき風情などは、こういう所にこそあるもので。
「兄様なんか、こういうの特に好きそうなんだけどな…」
―でも、俺が誘ったら、意地でも行かないって言うよね…。
少し考えれば当然のことだった、と曹植は自分の浅慮に苦笑する。しかし今頃兄はきっと、自室の窓からこの庭を眺めていることだろう。詩など解らぬ傅役に、また色々と無理難題を吹っ掛けながら…。
そう考えると、兄の機嫌を損なうまいと懸命な長身の男の姿が目に浮かぶ。声を押し殺しながら、曹植は笑った。
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