*薄桜鬼*
□真っ直ぐな言葉
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「……」
千鶴が先程から、八半刻近く眺めては困惑しているその対象は、紛れもない、鬼の副長の私室である。
隊士は怖がってほとんど近寄らず、本人も執務の邪魔になるからといって極力他人を近づけないようにしている為、昼だというのに閑散としていて雑音がまるでない。
やはり屯所にもこんな場所があったのかと驚くほど、久々に感動した。
「……おい。おまえさっきから何がしてぇんだ。入るなら入れ。」
中からどすの利いた低い声をかけられ、千鶴は思わずか細い肩をびくりと震わせて慄いた。
一歩退くも、思いとどまって意を決する。
「土方さん、雪村です。お薬をお持ちしたのですが、入ってもよろしいでしょうか?」
「……おう。」
「失礼します!」
自分でもわかるほどやけに気合の入った声で室内に踏み入れば。
まずは部屋に染み付いた墨の匂いが鼻孔を擽り、それから布団から起き上がろうとするその人を見つけた。
慌てて、持っていた物の一式を置いて駆け寄った。
「土方さん、寝てないと駄目じゃないですか!」
「うるせぇ!もう充分に休んだ、大丈夫だ。」
「大丈夫って…」
赤面で、息も上気し荒くて、風邪の重症を極めた要素を満点に持った風体で言われても、信憑性がなさすぎる。
いつもは毅然とした白い頬も今は色を変え、声も絡んでいる上、立ち上がろうとする動作さえ覚束ない。
そんな状態で執務など、到底無理だ。
そもそも、そんな状態でまともな判断が下せよう筈がない。
それをいくら言っても、彼は無理に立ち上がろうとする。
そんな彼を止められない自分が、千鶴には無念でならなかった。
自分が、もう少しきちんと物言える人間だったら。
そしたら、この人をきちんと休ませられたかもしれないのに。
項垂れて、それでも決起しようとする。
「……あ?」
土方がふと袖を握ってくる千鶴の手に気づき、柳眉を器用に顰めた。
がばっと勢い良く顔を上げた千鶴は、賢明に意思を伝えようと全力で首を振った。
「雪村?」
「駄目です!今日だけは、休んで頂きます。」
「そんなこと言ってられねぇんだよ。今日片付けておくべきもんは山ほど残ってる。」
「お願いです!どうか、お願いします。」
何度もそう言って頭を下げる。
そうすると、さすがの土方も滅入ったようで、深い嘆息を部屋中に響かせて、かなり渋々といったように答える。
「わあったよ。休みゃいいんだろ、休めば。」
「あ、ありがとうございます!」
嬉しくて、大人しく布団に潜り込む彼に、何度もお礼を言った。
そして、はたと彼の姿に目を留める。
「……なんだよ。」
「えっ、いや、その…。何でも、ないです。」
「はぁ?」
今になって、やっと気づいた。
今の彼の姿といったら、長いぬばたまの髪は結われておらず、彼が動くたびに羨ましいほど美しく零れる。
もともと顔が整っているから、こんな時ほど余計に目を惹かれる。
それに比べ、自分といえば。
色気の欠片もない身体に、童顔。
しかも、男装ときた。
立ち上がった時の長身のこの人とは違い、千鶴の背丈は五尺にも満たない。
思わず、溜息がこぼれた。
「……おい、人の顔見て何溜息ついてんだ。」
「え? 違うんです!……そうだ!土方さん、今朝から何も召し上がってないでしょう? あの、良かったら。」
そう言って千鶴が差し出したのは、野菜と煮詰めた粥。
濃い味を好む土方の江戸の舌に合わせて、塩を適量に加えてある。
だから決して、不味くはない、筈だ。
ただし急いで作ったから、不手際が生じているやも。
「……」
土方は、じっと粥を見つめている。
「あ…でも、今はお腹に入りませんよね。倒れられたばっかりなのに、ごめんなさい。」
「食う。」
「え?」
「出せ。食う。」
引っ込めようとした膳を、上体を起こした土方に引っ手繰られて、千鶴はしばし呆然とする。
一方の彼は相変わらず堅い顔で熱い熱いと言いながらも、きちんと嚥下してくれる。
不味いとも一言も言わずに、黙々ときちんと食べてくれることが、千鶴には何より嬉しかった。
病人というのによっぽど腹を空かせていたのか、あっさりと完食してしまう。
その速さに呆気に取られつつ、微笑ましく思っていた千鶴の頭の片隅に、はたとそれがちらつく。
「あ…」
「ん? どうした。美味かったぞ。」
「え? ありがとうございます。」
褒められたことが嬉しくて、思わず笑顔が弾ける。
けれど、それもすぐに曇る。
土方の柳眉がまた寄せられた。
「どうした?」
もう一度尋ねれば、彼女は逡巡してから、やがて文を差し出してきた。
宛名は、土方歳三様、とあった。
「誰からだ?」
「沖田さんが、島原で頂いたそうです。芸者さんに。」
ちら、と土方の視線が動いた。
手にとって、内容を流し読む。
その間、千鶴は正座したままずっと俯いたままだった。
何も言わない土方との間に妙な重い沈黙を感じて、思わず立ち上がった。
「雪村?」
「ちょっと、勝手場に戻ろうと思います。竈の火をちゃんと消したか心配なので。」
嘘をつくならもっと巧くつけばいいのに、と自分でも思う。
けれど、他の誰かが、それも島原の芸者という美人が想いを込めて認めたであろう懸想文を読む彼の傍らに、平気でいられるほど強くはないのだ。
「失礼します。」
彼が何か言う前に、千鶴はさっさと部屋を出て行ってしまった。