懸想の三蔵
□翠恋様/鯉若
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先程から、癪に障る。
けらけらと楽しそうな父の声が、せせら笑いのように聞こえる。
季節は小春日和の頃。
相も変わらず寒さは絶えず、あれだけ煩かったにも関わらず、空蝉の遺骸も風に吹かれてしまった。
ここでは郭公や都鳥もいないから、快い音も色もない。
役目の時分の炭櫃には、くすんだ炭がちらついている。
おまけに、先程から最愛の奥方は己が父に談笑の相手としてとられてしまっている。
何度か連れ戻そうと押しかけたのだが、その度に、若菜の気づかぬところで返り討ちに遭った。
ゆえに、鯉伴は今、物凄く機嫌が悪い。
「……首無。」
「何ですか。」
すぐそこで侍っていた随身の彼は、すぐに返事を返した。
「若菜は俺よりあのくそ爺の方がいいのか。」
「……はい?」
傍らの毛倡妓が堪えきれずに吹き出してしまう。
彼女も今、主をとられてしまっている身である。
首無が密かに小突いて窘める。
ちら、と鯉伴は彼らに視線を向けると、本日何度目かの盛大な溜息を吐いた。
もう何かを言う気にもなれないのである。
「若菜様が少しの間いらっしゃらないぐらいで、そうもご消沈なさる必要ないじゃないですか。すぐにお戻りになられますよ。」
が、依然として襖を隔てた隣の曹司からは、楽しげな声が絶えない。
すっかり話に花を咲かせてしまっている様子である。
余計に、鯉伴の気も重くなる。
「先代様も、北の御方様がお隠れになられてから久しいと聞きます。お話し相手に、愛娘たる若菜様が恋しいのではないでしょうか。」
「恋しいとか言うな。若菜をお袋の代わりにされちゃ困る。大体、そんなの若菜じゃなくたっていいじゃねぇか。」
「まあまあ。いいじゃないですか。先代様も、若菜様が可愛らしくおありなのでしょう。」
首無まで、そんなことを言う始末。
どうやら、鯉伴の嘆きをわかってくれる者はいないらしい。
どれ、久々にからかってみようか。
「そんなら、お前らはどうなんだい。」
「はい?」
同じ間合い、二人の返答が放たれた。
同じ様で、首を傾げる。
「いつになったらお前らんとこにも餓鬼が出来んだろうねぇ。」
いやー、楽しみだ。
なぞと言いつつも、鯉伴の口許はにやけている。
今度は、即座に返事のなかった。
やや間があって、毛倡妓が無言で顔を赤くし、俯いて肩を震わせた。
「お前らんとこの子供なら、リクオの随身だな。よろしく頼むぜ。」
火桶で暖をとりながら、鯉伴は飄々とそんなことを言ってのける。
ちなみに、当のリクオは雪女と共に庭で追いかけっこの最中だ。
こちらも楽しそうな声が聞こえてくるのだが、何分熱の入りやすい雪女のことである。
やけに気合が入っているらしく、先程から時折、こちらまで吹雪の残物が届く。
野太い悲鳴とともに、氷の割れる音やら悲鳴やらも聞こえる。
まあ、その分リクオが楽しげなので止める気はないのだが。
「あの、鯉伴様。」
「ん? 何だい。」
主の戯言にも耐性がある筈の首無も、今度ばかりは何とも複雑な面持ちである。
と、毛倡妓が突然立ち上がる。
思い切り赤面して、地団駄を踏んだ。
「知りません!!」
首無の制止も虚しく、そこいらに置いてあった脇息が、物凄い勢いで飛んできた。