懸想の三蔵

□佳那様へ/鯉若
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「鯉伴さんの、」


涙目で、睨めつけられた。

まずいと思ったのよりも先に。


「馬鹿!!!」


右の頬に衝撃が走った。






























今宵の総大将は散々だった。


愛妻をああまで怒らせたのが気がかりで、いつもよりだいぶ早い出入りの帰りだったのだが、それも出迎える気配は微塵もなかった。

いつもは風呂の支度をしてくれていたのさえ、放置の様だった。


挙句、何度かばったり出くわして顔を合わせても、鯉伴が声を掛けるより先に走り去ってしまう。

無理にでも若菜を引き止めると、彼女は鯉伴が今までに見たことのない悲しげな顔で憤怒の極みを露呈し、再び鯉伴の頬に平手打ちを食らわせて行った。


そうまで拒絶されると、さすがの総大将もへこむ。

ここまで嫌われたことなど、今まで一度たりともなかったのに。


挙句にこの夕餉の席だ。

奴良組の夕餉はやや遅い時間に一同揃ってなされるのだが、今日ばかりは北の方の姿がない。

普段ならば、総大将の傍らの席には彼女がいて、器量の利いた酌をしていたのだが。

今日に限っては、ほぼ男所帯の奴良組の夕餉に花がなかった。


「で、今度は何をしたんじゃい。」

「あ?」


徐に口を開き、悠長に飯を頬張っている先代以外の誰もがひやりと肝を冷やした。

誰しもが尋ねたかったが、恐縮して口にすら出来なかったその言葉を、その人はこうも簡単にさらりと言ってのけた。


皆が固唾を呑む中、片足を立てて胡坐を掻き、手酌で飲んでいた鯉伴が忌々しげに舌打ちをした。

いつもなら、お行儀が悪いですよ、と言って穏やかに窘めていた彼女は、今は不在である。


ゆえに今の総大将の機嫌といったら、悪いとかそんなものではない。

畏れがどうの、とも言えない。

不機嫌、というより暴走寸前だ。

何が枷を外すか、皆心配でひやひやしているのである。

中には、ちゃっかり逃げ出す体勢に入っている者まである。


「どうせまたしょうもないことで若菜さんを怒らせよったんじゃろ。今度はなんじゃい。」

「親父にゃ関係ねぇ。」

「ああ、お前のことなんざ興味もないわい。じゃがのぉ、若菜さんは儂の大事な娘での。儂も黙っちゃおれんのじゃ。儂は若菜さんの味方じゃて。」


ずずずと呑気に茶を啜る音だけが、広間に響く。

箸を動かす音さえないほど、配下の緊張は限界だった。


「もし若菜さんを泣かせよったら、お前を泣かすぞ。」

「おうおう。ご隠居が言ってくれるねぇ。そんなことが親父にできんのかねぇ。」

「でかい口だけは叩くようになったようじゃねぇか。」


既に両者のドスの用意は出来ている。


これは、先程よりも悪化してはいないだろうか。

配下の中には、小心者ゆえに泣きそうになる妖怪もあった。

そうでなくとも、総大将と先代を見比べて逃げ時を窺っている者もいる。

果ては、せめて首だけは逃れようとふよふよと首を浮遊させ、胴体に必死にしがみつかれている奇妙な様まで拝めた。


「若菜のことまでとやかく口出しされるのは気に食わないねぇ。」

「知らんわ。泣かせるお前が悪いんだろうが。」


啖呵を切ったが最後、二人の抜刀と共に閃光が放たれる。

歯切れの良い刀のぶつかる音が響いて、誰もが落胆した時。


「鯉伴様、鯉伴様!!」

「鯉伴様はおられますか!?」


広間に転がりこんで来たのは、毛倡妓と雪女の二人だった。

もしや北の方に何か、と誰もが危惧した。


柳眉を寄せた鯉伴が、ゆっくりと二人を見る。


「どうした。」

「どうしたじゃ御座いません!!」


ぴしゃり、と二人の声が重なった。








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