懸想の三蔵

□晴菜様へ寄贈
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「妖様?」


宵の奴良組屋敷は、出入りで人手が薄くなると、冷たいまでの静寂が辺りを包む。

夜露に濡れた玲瓏なる空気が、庭先の草をさらさらと揺らした。


「どちらにいらっしゃるんでしょう…。」


しゅんと項垂れた彼女の肩を、一房の髪がさらりと零れ落ちる。


彼女の探すその人の姿が、先程から見当たらない。

寝付く前の瞬間までは、ちゃんと隣にいた筈なのに。


守るように自身に回されていた腕が、起きたらなかった。

不安になって、何度も名を呼んだ。

それでも、返る声はなかった。


しんとした冷たい廊下を裸足で歩く。

従者も引き連れずに奥方が歩くのは、些か高貴なる作法の常軌を逸しているというもの。

それでも、珱姫はただ長い廊下をひた歩いた。


「妖様。どうか返事をしてください。」


妖様、妖様、と。

何度も、何度もその声を求めた。


ただ少し離れただけでも、不安になる。

彼の生業も、彼が多くの者に怨みを買っていることも知っている。


寒くて、肩が上がる。

両の腕で自らを抱くように擦りながら、きょろきょろと歩き回った。


「妖様……」


整った柳眉が寄せられ、長い睫毛が伏せられる。

翳りを孕んだ相好。

呼ぶ声も、段々とか細いものになっていった。


怪我をしては、いないだろうか。

それとも、何か大事などあってはないだろうか。


どうか、無事でいて欲しい。

ただの杞憂で過ぎてしまえばいいのに。


それでも、彼は無鉄砲で頑固な面があるから、無茶を自分に強いることが多い。

だから、余計に心配になるのだ。


手を擦り合わせて、瞑目して祈る。

どうか、無事でありますよう。

どうか、お願いを。







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