懸想の三蔵
□さち様へ寄贈
1ページ/4ページ
項垂れるのは、父と似た幼い面を曇らせるその子。
いつもは活気に満ちて、母とよく似た無邪気な笑みを見せる彼は、今日は悲しげに眉根を寄せていた。
「お母さん……」
ついと母の小袖を引っ張ってみるが、膝を抱えた彼女は同じく俯いてしまっていた。
やがてその小さな白磁の手が、我が子の更に小さな手にそっと触れて、縋るように力を込めた。
「お母さん、泣かないで。」
そっと顔を上げた若菜は、今にも泣きそうな顔で一言、我が子に詫びた。
さて、然様になったのはいつだったか。
ついぞ、わずか数刻ほど遡ろうか。
「今、何と言った。」
珍しく険しい顔で、幼妻に据えた目を向けた彼は、ひどく焦燥していた。
それを、固唾を呑んだ彼女は負けじと見返す。
「出て行くと、そう言いました。」
確かに、舌の上で痺れるように口にすると、彼はますます目を細め、苛立たしげな顔をした。
けれど、若菜もここで引くわけにはいかない。
これは、若菜が考えに考えを重ねて出した決断だから。
「安心して下さい。リクオは後嗣ですから、置いて参ります。」
やけに大人びて力強く言う彼女の言葉を信じきれず、内心の焦燥を隠しきれない鯉伴は、呆れたように苦笑した。
軽く笑いながら、か細い肩を軽く叩いてやる。
「何を血迷った。落ち着け。」
「私は、本気です。」
出会ってこの方、一度として聞いたことがないような、はっきりとした強い主張だった。
それで初めて、鯉伴の柳眉が寄せられ、鼻で笑う。
「馬鹿なことを言うんじゃねえ。」
「どう言われようと、決めましたから。」
淡々と、飽くまで冷徹に言ってのけ、正座した若菜は一退し、三つ指をついて深く頭を下げた。
「今まで、お世話になりました。」
「……おい、何があった。」
「つきましては、明朝に此方を出て行くことを、どうかお許し下さいませ。」
「――若菜っ!!!」
怒声とともに、鯉伴は立ち上がった。
びくり、と若菜は一瞬だけ震えたが、双眸の意志は変わらない。
大股に若菜の前に膝をついた鯉伴は、彼女の頤を掴み、ずいっと顔を上げさせた。
燃えるような意志と、震えた焦燥の二つの視線が交差する。
どちらも、譲歩しない。
今度ばかりは、譲るわけにはいかないから。
やがて、長い沈黙を破り、鯉伴が口を開いた。
「何も、言わないのか。」
何も言わずに、一体何を抱え込んだ。
縋るような無言の詰問に、若菜は無言を貫く気でいた。
「――若菜っ!!!」
空気が震えるような、猛々しい声がした。
激しい憤怒を孕んだその怒声が、彼女に向くのは、これが初めてだった。
それでも、若菜の意志は変わらない。
冷めた眼差しは、何も語らない。
「……もう、堪えられないから。」
「何?」
ぽつりと洩らされた小さな声を、鯉伴は聞き逃さなかった。
そして若菜は、今度ははっきりと言った。
「もう、ここにいたくないの。」
お願いだから、止めないでと。
彼女がそう言った刹那、乾いた音が室内に響いた。
鯉伴が、初めて彼女に激昂した。
「あ……」
鯉伴が瞠目して、己が手中に視線を落とした。
がんがんと脳天に激痛が走って、思考が揺らいではまともに働かない。
赤く腫れた頬を押さえ、若菜は目の淵に涙を溜めて、されど決して泣きはしなかった。
呆然とする鯉伴が口を開くより先に、さっと立ち上がって、
「お願いが、あります。」
一度だけ、背を向けてぴたりと足を止めた。
「あの子を……リクオを、どうか、どうか。」
振り向いて、一瞬だけ視線を絡ませる。
悲痛に歪んだ相好で、彼女は鯉伴に懇願する。
「必ず、守って下さい。」
深く、長く一礼した後。
静かに、彼女は駆けて行った。
鯉伴はその背をただじっと見つめ続けるだけで、暫くの間、寸分も微動だにしなかった。
「若菜……」
呟いた声に、答える微笑みは、いまはない。
ただ、虚しい響きがあるだけ。
虚ろな眼差しで、彼女の去った方を見て、鯉伴は随分の間、動くことさえ忘れていた。
明日、彼女の姿は、この屋敷から消える。