懸想の三蔵

□さち様へ寄贈
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項垂れるのは、父と似た幼い面を曇らせるその子。

いつもは活気に満ちて、母とよく似た無邪気な笑みを見せる彼は、今日は悲しげに眉根を寄せていた。


「お母さん……」


ついと母の小袖を引っ張ってみるが、膝を抱えた彼女は同じく俯いてしまっていた。

やがてその小さな白磁の手が、我が子の更に小さな手にそっと触れて、縋るように力を込めた。


「お母さん、泣かないで。」


そっと顔を上げた若菜は、今にも泣きそうな顔で一言、我が子に詫びた。















































さて、然様になったのはいつだったか。

ついぞ、わずか数刻ほど遡ろうか。


「今、何と言った。」


珍しく険しい顔で、幼妻に据えた目を向けた彼は、ひどく焦燥していた。

それを、固唾を呑んだ彼女は負けじと見返す。


「出て行くと、そう言いました。」


確かに、舌の上で痺れるように口にすると、彼はますます目を細め、苛立たしげな顔をした。


けれど、若菜もここで引くわけにはいかない。

これは、若菜が考えに考えを重ねて出した決断だから。


「安心して下さい。リクオは後嗣ですから、置いて参ります。」


やけに大人びて力強く言う彼女の言葉を信じきれず、内心の焦燥を隠しきれない鯉伴は、呆れたように苦笑した。

軽く笑いながら、か細い肩を軽く叩いてやる。


「何を血迷った。落ち着け。」

「私は、本気です。」


出会ってこの方、一度として聞いたことがないような、はっきりとした強い主張だった。

それで初めて、鯉伴の柳眉が寄せられ、鼻で笑う。


「馬鹿なことを言うんじゃねえ。」

「どう言われようと、決めましたから。」


淡々と、飽くまで冷徹に言ってのけ、正座した若菜は一退し、三つ指をついて深く頭を下げた。


「今まで、お世話になりました。」

「……おい、何があった。」

「つきましては、明朝に此方を出て行くことを、どうかお許し下さいませ。」

「――若菜っ!!!」


怒声とともに、鯉伴は立ち上がった。

びくり、と若菜は一瞬だけ震えたが、双眸の意志は変わらない。


大股に若菜の前に膝をついた鯉伴は、彼女の頤を掴み、ずいっと顔を上げさせた。

燃えるような意志と、震えた焦燥の二つの視線が交差する。

どちらも、譲歩しない。

今度ばかりは、譲るわけにはいかないから。


やがて、長い沈黙を破り、鯉伴が口を開いた。


「何も、言わないのか。」


何も言わずに、一体何を抱え込んだ。


縋るような無言の詰問に、若菜は無言を貫く気でいた。


「――若菜っ!!!」


空気が震えるような、猛々しい声がした。


激しい憤怒を孕んだその怒声が、彼女に向くのは、これが初めてだった。

それでも、若菜の意志は変わらない。

冷めた眼差しは、何も語らない。


「……もう、堪えられないから。」

「何?」


ぽつりと洩らされた小さな声を、鯉伴は聞き逃さなかった。

そして若菜は、今度ははっきりと言った。


「もう、ここにいたくないの。」


お願いだから、止めないでと。

彼女がそう言った刹那、乾いた音が室内に響いた。


鯉伴が、初めて彼女に激昂した。


「あ……」


鯉伴が瞠目して、己が手中に視線を落とした。

がんがんと脳天に激痛が走って、思考が揺らいではまともに働かない。


赤く腫れた頬を押さえ、若菜は目の淵に涙を溜めて、されど決して泣きはしなかった。


呆然とする鯉伴が口を開くより先に、さっと立ち上がって、


「お願いが、あります。」


一度だけ、背を向けてぴたりと足を止めた。


「あの子を……リクオを、どうか、どうか。」


振り向いて、一瞬だけ視線を絡ませる。

悲痛に歪んだ相好で、彼女は鯉伴に懇願する。


「必ず、守って下さい。」


深く、長く一礼した後。

静かに、彼女は駆けて行った。


鯉伴はその背をただじっと見つめ続けるだけで、暫くの間、寸分も微動だにしなかった。


「若菜……」


呟いた声に、答える微笑みは、いまはない。

ただ、虚しい響きがあるだけ。


虚ろな眼差しで、彼女の去った方を見て、鯉伴は随分の間、動くことさえ忘れていた。


明日、彼女の姿は、この屋敷から消える。






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