懸想の三蔵

□月と光と
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奴良組には、総大将に認められた者だけが可とされる羽織がある。

藍染の、背中に畏の紋が入ったそれは、組の崇高なる印。

普段は滅多に着ないが、派手な出入りの際は必須の品である。

某日、それに袖を通した鯉伴が、思い切りそれを綻ばせて凱旋した。

屋敷に戻るや出迎えた若菜は、とりあえず無事を安堵したのだが。


「あの、鯉伴さん。それ、破れちゃったんですか?」

「ん?――ああ、これか。」


大きく袈裟斬りに損じたそれは、今にも欠けそうである。

門口で鯉伴はへらりと笑い、ひらひらと片手を振って、若菜の前に言う。


「いや、今日の出入り先になかなかの難敵がいてな。
太刀捌きが巧いのなんの。多分、あいつにやられたんだな。」


彼は特に気に留めている様子はないようだが、若菜にはどうも気が気でならない。

幸い鯉伴自身には寸分の傷もないようだが、折角の上等羽織が勿体ない。

これでは、彼の格好もつかないではないか。


「鯉伴さん。それ、貸してください。」

「別にいいけどよ。……まさかとは思うが、」

「明日、仕上げておきますね。」


少しぼろぼろになったように思われる羽織を受け取りながら、若菜はにこりと微笑んだ。

鯉伴は、気まずそうに視線を泳がせる。

だって、彼は重々に知っているから。

彼女はよく働くし、器量だっていい。

料理をさせれば美味いし、洗濯をさせれば皴一つなくこなす。

掃除だって、隅まで塵一つ残さない。

ただ、どうしても、裁縫だけはめっぽう駄目なのだ。

料理だって、少し前に嫁いできた時は大変だった。

皿は何度も割るし、よく包丁で指を切ったりもしていた。

今ではそんなこともないけれど、重ね重ね、裁縫だけはさせてはならないのだ。

彼女ならば、細い指が血に濡れかねない。

そんなこと、させてなるものか。


「なあ、若菜。」

「はい?」

「そうだな。ありがたいが、おまえにゃ他の家事があるだろ?別に針なんざ針女役がたくさんいるだろう、この屋敷にゃ。」

「やっぱり、いけませんか?」


しゅん、と明らかに落ち込んだ様子なので、鯉伴も慌てた。


「いや、そうじゃねぇんだ。ただ……そう、明日は俺も用無しだし、久しぶりにゆっくり過ごそうや。」


それは嘘だ。

本当は、明日にも遠征に出なければならない。

組同士の抗争の鎮圧の役があるのだ。

けれど、こうでも言わないと彼女は前言撤回しそうもない。


「針子の役目は、雪女辺りが引き受けてくれるだろうよ。」

「……それじゃ、駄目なんです。」


きゅ、と羽織を強く抱えて。

若菜は強い視線を鯉伴へと向けた。


「鯉伴さんが危険な場所で頑張ってるっていうのに、私は何も出来ないから。
だからせめて、少しでも鯉伴さんの力になりたくて。……でも、やっぱり私、何もできな――」


彼女の言葉は、伸ばされた腕によって遮られた。

突然抱きしめられて、若菜は真っ赤になる。


「なあ、若菜。」


近くで囁く声音の低さに、思わず肩が震えた。


「そんな悲しいこと言うなよ。」

「でも私、鯉伴さんに何もしてあげられなくて……っ!!
みんな自分なりに組や鯉伴さんのために何かこなしてるのに、私は何も。
……それに、鯉伴さんの奥さんは私だから、他の人に鯉伴さんの繕い物の仕事を、盗られたくないんです。」


しばしの沈黙。

若菜が不安げにしていると、鯉伴の双眸が目前に迫って来た。

真摯なその瞳から、若菜は逃れられない。

ふっと彼の口許が綻び、妖艶に笑う。

どきっと胸が高鳴り、若菜の心臓は忙しく動き出す。


「あんまり可愛いこと言うと、襲っちまうぜ。」

「お……っ」

「ははっ。冗談だ。」


ぽん、と頭を撫でられ、髪を梳かれた。

そして、左頬に口接けられた。


「頼んだぜ、若菜。」


疲れた疲れた、と彼はもう歩き出していて。

若菜はしばし呆然としていたのだけれど。


「――はい!!」


元気に返事をして、その背中を追った。







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