長編

□第七夜
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「貴方が元気になったら、私を遠乗りに連れて行って。」




どこか遠くへ、二人で。












――気が遠くなるほどの昔。女は言った。

実によく笑う娘だった。

そして、眩かった。

その心も、笑顔も、気配も。

儚げで、澄んだ声で自分を呼ぶ彼女を、彼女が――人が忌むべき妖怪である彼が、触れてよいものかと。

だが彼女と共に在れば、自分も浄化されるような気がしていて。

自分も人と同じ心を、本能を持てる気がしていた。























「馬腹や。」


自分を呼ぶ市女狐の声に、彼ははっと顔を上げた。

市女狐は彼の背後に顕現し、こちらをじっと見ていた。


「どうかなさいましたか、御狐様。」

「いや。ちと聞きたいことがあってな。」


彼女はすっと歩み寄ると、無表情の彼の頤に細い指先を添えた。


「妾は聞いたな。何故、妾の助太刀をするのかと。」

「はい。」

「何が、目的だ?」


吐息がかかるほど近くに、彼女の顔があった。

馬腹は視線を動かすことなく、淡々と言った。


「僭越ながら申し上げれば、百鬼の頂上を、見てみたく思いましたゆえ。」

「百鬼の頂上?」

「はい。魑魅魍魎の主となられる方の、その傍らで。百鬼の眺めとやらを、この目に焼き付けたく思いましたがため。」

「…ほぅ。」


ふっと微笑んだ市女狐は、涼やかな視線を逸らし、すぐに興冷めしたように馬腹に背を向けた。


「なれば、早う依代を。これも、もうじき壊れそうだ。妾の魂を収めるには小さすぎる。」

「御意。」


拝礼する馬腹を見納めし、市女狐は機嫌良さげに穏形した。

途端、馬腹の柳眉が寄せられ、唇が噛み締められる。

血が滲んで、見るだけで痛々しいほどに。


彼自身、無意識のうちに、馬腹は己の拳を握り締める。

爪が食い込んで、血が滴っていた。





































「で?どう弁解するのです。」

「……悪い。」

「謝ってすむものではございませんよ、総大将!!!」


広々とした座敷で、きちんと正座してお叱りを受ける鯉伴。

今回ばかりは高座ではなく、平座に腰を下ろしている。

面会をすっぽかし、保護観察下にある若菜を無意味に連れ出し、挙句白昼に妖怪を飛ばせた。

しかもこの半日、若菜に景色巡りなぞに連れまわしたというではないか。

どういう神経をしているのだ、と首無と黒田坊からこっぴどく小言を受ける。

延々と続く説教に飽き、ちらと隣を見やれば。


「……若菜?」


こくりこくりと首を傾けさせて居眠りしている彼女も、現在一緒に説教されている最中だ。

冤罪ではあるものの、若菜は素直にお叱りを受けていた。ついさっきまでは。


「あ、おい。」


よほど疲れたのだろう。

倒れかけた彼女を、鯉伴は慌てて支えた。


「ああ、寝ちまった。」


すうすうと寝息を立てる若菜を、鯉伴はさっさと横抱きにする。


「ちょっと、鯉伴様。まだお話が終わっていません。」

「そんなの後にしろ。俺はこいつを部屋に届けて来るからよ。」


なおも言い募ろうとする黒田坊を、首無が腕を掴んで制した。

女性への気遣いは組でも随一。

やれやれと肩を落とし、黒田坊も折れて、二代目の背を見送った。


「まったく、二代目にも困ったものだ。」

「だが、黒よ。見たか。」

「何を?」

「あの娘、笑っていた。」


ここへ来て以来、怯えてばかりで、一度も微笑んだことがなかった彼女が。

初めて、笑った。


















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