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□ハロー、青緑の君
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「笑いなさい、玲琅」
隣に立っている父親が、憮然とした表情で言った。この人はいつもそう。
普段はわたしの存在なんか目にも入らないってくらい放っておくくせに、
パーティーやお呼ばれの場なんかではいつもニコニコ笑ってわたしを気にかけて、
いい父親のふりをしては、ちっとも笑わないわたしに笑えと命令する。
「本日はお招き感謝します」
またひとり、本性を隠して無害そうな笑みを浮かべた小太りの男が近づいてきた。
父親はさっとさっきまでの表情をひっこめて、人のよさそうな、けれど隙のない様子で返事をする。
嘘で固めた自分を売りこむ男と、自分を嘘でのし上げた男。これほど馬鹿馬鹿しい組み合わせはない。
父親が男の相手をしている隙に、わたしはさっさとその場を離れた。
いまや世界にも通用する大企業の社長の娘に生まれたことを、誇りに思ったことはない。
父親はとんでもない利己主義者だし、母親は有り余る金で好き放題だし、兄は自分が有能だと信じて疑わない馬鹿で、妹は全部が思い通りになると思ってる。
唯一まともなのはわたしだけど、家族ではわたしがいちばん浮いている。
無口で、自己主張が少ない、自閉的、批判的、感情表現が乏しい。
好きでそうなったわけじゃない。そうならざるを得なかっただけだ。
どんなに綺麗な宝石も、上等なドレスも、豪華な部屋も、何もかも、わたしにとっては汚いものだから。
通わなくたって卒業できる学校も、いなくても問題ない友達も、お互いに興味がない形ばかりの家族も、馬鹿馬鹿しい。
休日の一家の団欒や、なんでもない友達とのお喋りや、ほんとうに些細なことに必死になることが、ずっと羨ましかった。
いまはもうそんなの夢だってわかってるけど、この状況を受け入れることは出来ない。みんながわたしを羨ましいって言うけど、全然いい気分になんかなれない。
そうやって言われるたび、わたしの価値はこの家の娘だということでしか成り立たないようで、気持ちが悪くなる。
そんなわたしは変わり者だと周囲からも認知されていて、最初は何かと近寄ってきたクラスメイトや父の知人も、どんなに媚びへつらっても無駄だとわかっているから、いまではあまり関わろうとしない。
父親はそんなことを知りもせずに、なおもいい印象を与えたいのかわたしに笑えと無理を言う。
それなら他を出せばいいのにと思うが、残念ながらうちの兄弟ではわたし以外あまり容姿がよくない。
まったく踏んだり蹴ったりだ。
「玲琅」
置いてきたと思っていた父親が、オレンジジュースのグラスを傾けるわたしを探しあてた。
うしろに見かけない男のひとを連れている。まだ若くて、二十かそこらかな。なんとなく、嫌な予感。
「こちらは饗庭工業を継ぐことになった松山遠一さんだ。前々から話していたんだが、彼がおまえを甚く気に入っているようで、この機会にぜひ結婚を前提に交際をと……」
最後まで聞かないうちに溜め息が出た。驚愕っていうより、やっぱり、って。
今回のパーティーの主役だという松山遠一は、にこにこおどおどしながら何度もむやみに頭を下げている。
一見好青年に見えるけれど、契約条件にわたしを求めてくるあたり、ただの善人とはいえないだろう。
父がそれに応じたということは、彼の会社がうちに並ぶか越すほどの大企業だから。
その証拠に、さっきから父はわたしに「うまくやれよ」という視線を送ってくる。
「松山さんと少し話したいから、父様はあっちに行って」
わたしは適当に父を向こうへやって、松山さんを振り向いた。
父は去り際「それでいい」と言うように頷いていたけれど、これからわたしが彼にどう当たるか想像もしてないのだろう。
松山さんはわたしを見て、にへらと笑った。笑い方はまぬけだけど、隙がない。うまく世の中を渡っている人間はみんなそうだ。
「ずっとあなたと話してみたかったんです」
松山さんはそう言って、さりげなくわたしに近づいた。なにか香水をつけているのか、柑橘系の香りがする。つんと鼻にくる、嫌いな臭いだ。
「それならそう言えばいいじゃない。わざわざ父様の承諾を得て、相互扶助の条件にしなくたって」
「そっちのほうが、あなたは断りづらくなると思ったから。お父上の会社が潰れるのは、嫌でしょう?」
やっぱり、ろくでもない奴だった。にこにこ笑いながら、軽く首を傾げて、そんなふうに毒を吐いた。
こういう人間が嫌いだから、わたしはどんどんねじれていく。こういう人間に飲まれるのが嫌だから、それに逆らって孤独になる。
「嫌よ」
わたしの言葉に、松山さんは愉しそうな顔をした。思い通りに事が進んで、欲しいものが手に入って、満足したような顔。
けれどわたしは、それを、突き落とす。
「あなたの玩具になるのは、」
嫌。
そう言いかけたとき、会場に音楽が鳴り始めた。前方のステージの上で、いつのまにか現れたオーケストラが、ゆったりとした舞踊曲を演奏している。
わたしの台詞を聞きそびれた松山さんは、恭しく跪いて、わたしに手を差し出した。
「一曲いかがですか、お嬢さん」
にっこりと、普通の女の子なら即座に頷いてしまいそうな甘いスマイル。わたしがYESと答えるのを完全に信じ込んでいる、自信に満ちた表情。
けれどわたしは、頷かなかった。
綺麗なものは嫌いだ。その下には、すごく汚いものが隠れているから。
松山さんの綺麗な微笑みの下も、きっと醜いものでぐちゃぐちゃだ。
それを見るのが嫌だから、それを受け入れたくないから、わたしは頷かなかった。その代わり、差し出された手を片手で払いのけて。
「嫌。あなたと踊るなら、死んだほうがマシ」
そう言って、呆ける松山さんを残して踵を返した。
裾の長いドレスは歩きづらくて、踊る人たちをうまく避けていくのは大変だった。
途中父親に会って(母ではない綺麗な女のひとと踊ってた)、松山さんはと聞かれたけど、さあ、なんて言って肩をすくめるとさっさと会場を出た。
熱気に酔って気持ち悪くなりそうだ。涼しい風にあたりたくて、庭に足を運ぶ。
今夜は満月が綺麗だった。整備された芝生をキラキラと照らして、頭上高くに輝いている。
綺麗でありながら、唯一穢れないもの。それは綺麗を通り越して、崇高ですらあった。
広間からは光と音楽が漏れていて、静寂とのコントラストがなんだかすごく虚しい。
「一曲いかがですか、お嬢さん」
聞いたことのある台詞を、聞いたことのない声が言った。
振り向くと、庭に出てきたのは背の高い男。年は、わたしとあまり変わらないかもしれない。
月明かりのせいで青緑に見えるのかと思った瞳は、わたしの目の前まで来ても青いままだった。
そのせいで、まるで人形みたいだ。無国籍の、絵に描いたような青年。
「それとも、俺と踊るくらいなら死んだほうがマシ?」
くつくつと喉の奥で笑って、男は首を傾げた。
「……見てたの」
「あれはいい。あんたがいなくなったあとのあいつの顔、最高」
男は顔を崩して笑うといくらか幼く見えて、いくら待っても自分はどこの会社の誰だとか、何をやっているだとか、わたしが聞き飽きたようなことをひとつも言わない。
名乗ることさえせずに、わたしの前に膝をついた。
「Why don't you dance?」
聞こえてくる音楽はテンポの速いワルツに変わっている。
男は青緑の瞳を静かに揺らして、わたしを見つめていた。それを見つめ返していると、無意識に手を重ねてしまう。
今度は、振り払ったりしなかった。なぜか振り払えなかった。
「……Why not?」
わたしが答えると、男は薄く微笑を浮かべて立ち上がり、うまくリードして音楽に乗せてくれる。
強引でなく、柔なわけでもなく、一つ一つの動きが、どこまでも澄んで洗練されている。
ダンスは恥をかかない程度にしか習っていないわたしでも、まるで踊り子になった気分だった。
ステップが軽くて、指先の動き一つまで美しく、ドレスの長い裾だって気にならないし、相手が見知らぬ誰かだっていうことが心地よい。
「上手ね」
一曲踊り終わって素直に褒めると、男は恭しくお辞儀をしてみせた。
「光栄の至り」
顔を上げて笑うと、それがまた嘘っぽい。
けれどそれは不快なものではなく、何かを隠そうとしているというよりは、わざとおどけているみたいでおかしかった。
父の知人に限らずこういうパーティーなんかに来ているひとたちはみんな、利益しか考えない人間ばかりだと思っていたけど、この男はなんだか違う。
飾らない、それでいて無視できない存在感があった。青緑の瞳も、見る者を惹きつける。
「あなた、名前は?」
わたしが聞くと、彼はなぜか苦笑した。
「なに?」「いやべつに」
そう言って苦笑を引っ込めてから、「シアン」と答える。
「シアン?」
「そのまんま、あだ名」
なるほど。彼の瞳はたしかにシアンだ。
「本名は」
「出来れば言いたくないけど」
「どうして」
「がっかりするだけだから」
「わたしが?」
「俺が」
意味がわからない。
いいから教えて、と急かすわたしに、彼はまた苦笑して肩をすくめた。
「ためしに聞くけど、樋口碧って知ってる?」
「知らない」
「やっぱり」
溜め息をつく彼は、落胆しているというよりは呆れているみたいだ。
樋口碧なんて、聞いたことがない。
「まあ、いいや」
碧は浅く息を吐いて、上等なスーツが汚れるのも気にせずにその場に座り込んだ。
こんな不躾な男がよくも今夜のパーティーに呼ばれたものだ。
「俺、あんたのクラスメイトなんだけど」
突然そんなことを言われて、わたしは思わず目を見開いた。
その瞬間はたしかに油断していて、まったくの無防備で、腕を引っ張られれば簡単によろけて地面に膝をついてしまう。
「嘘」
転んだわたしの手首を掴んだまま、碧は悪びれたふうもなく言って笑った。
だから、油断できないのに。わたしは彼を睨みつけて、「離してよ」と低く唸る。
「気が短いよ、お嬢さん」
碧はやれやれと溜め息をつく。
「離して」
「最後まで聞けって」
「嫌」
最後までも何もないだろう。結局こいつも他と変わらない。
少しだけ違うように見えたのは、彼の瞳が息を呑むほど綺麗だったから。澄んでいた窓ガラスが、とたんに曇っていくみたいだ。
「ほんとは隣のクラス」
碧は真面目な顔で言うけど、わたしは疑う顔を隠さなかった。
「嘘じゃない。あんたが学校嫌いなの知ってるのに、こんな嘘ついたって意味ないじゃん」
なんで知ってるのかは疑問だけど、たしかにそうだ。クラスメイトだの何だのと言われようと、心を開く気になんかなれない。
けど、わたしは張り詰めた神経を緩めなかった。それを見て碧はふっと笑って、
「可愛い。ほんとは急に手を引かれて、びっくりしただけなんじゃないの」
そう言って、ぱっと手を離した。
不意に掴まれた手首は熱が絡みついたように、放されてもなお熱い。
「俺はただあんたと話をしたいだけ」
「……どうだか」
「疑り深いなあ」
「信じたってしょうがないでしょ」
信じても何も得ない。奪われるだけだ。疑えば騙されない。冷めてしまうけど、奪われるよりずっといい。
信じても大丈夫なのは、玲瓏と浮かんでいるあの月だけ。
思ったより冷めた口調をしていたのか、碧がきょとんとしてわたしを見る。
広間から流れてくる音楽が、ひどく色あせて耳障りだった。
「なるほど」
無理に同調するのではなく、素直に感心したような声だった。
「信じるだけ無駄?」
「そう」
「それは、裏切られるから?」
「奪われるから。みんな自分の利益しか考えてない」
「そうかなあ」
「少なくともわたしは、そういう人間しか知らない」
そう言ったわたしに、碧はまた「なるほど」と頷く。今度はなにか満足したみたいな声音だ。
「あんたは賢いんだ」
「は?」
「奪われるってわかってるのに、みすみす騙されたりなんかしない。けど、可能性を知ってる」
「可能性?」
急になんの話だろう。
碧はうん、と頷いて、にっと口角を上げた。
「そうじゃない人間もいるっていう可能性」
「……なにそれ」
「俺と一曲踊ったのが証拠だ。俺は違うって思った。あんたからなにかを奪うような、そういう人間じゃないって思っただろ」
「自惚れないで」
「正確な自己分析だと思うけど。実際に俺はあんたを騙したりしない」
どう? と碧は笑ってみせる。
どうもなにも、ここまでナルシストな男は初めてだ。けど、なぜか不快じゃない。どうして。
「確かめ足りないなら、もう一回踊る?」
「嫌」
「俺は嫌じゃない」
「そんなの知らない」
「いいね、困惑してる」
碧は愉しそうに笑うけど、こっちは全然愉しくない。上手にあしらえないし、本性が見えなくて調子が狂うし、たしかにわたしは困惑していた。
「もう中に戻ったら」
「なんで」
「あなたと話したくない」
「ふうん?」
「ふうんじゃなくて……」
そろそろ困惑を通り越して苛立ってきて、振り向くと彼はやけに真面目な顔をしていた。
じっと見つめられると怯んでしまう。彼のシアンの瞳は、強力な魔力かなにかを持っているみたいだ。