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□バスタブにて愛を囁く
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 湊の住む地域には不審者がいる。
 どこの誰かはわからないけれど彼はしばしば目撃されていて、誰もが彼の異様な姿に思わず道を譲ってしまう。
 湊が初めて彼に会ったときも、彼はやっぱり異様な姿をしていた。
 そして湊は、その不審者に恋をした。







    


「あ、出た?」

 湊は適当に回していたチャンネルを止めると、風呂場からフラフラと出てきた男を振り向いた。
 男は無言で頷くと、勝手に台所の冷蔵庫を開けて喉を潤す。

「他人ん家の冷蔵庫を勝手に漁るな」

 湊は言いながら立ち上がって、用意していたタオルを男の頭にかぶせる。

「ちゃんと乾かしてから外出なよ」

 念を押しておかなければ、びしょびしょのまま出て行くに違いない。
 男は面倒くさそうに顔をしかめたけれど、何も言わずにおとなしく頷いた。
 湊は換気扇の下で煙草を取り出す男の隣に立って、グラスに水を注ぐ。

「今日は何があったの?」

「……ペンのインクがついた」

「それだけ?」

 湊は呆れて溜め息をつく。
 巷で噂の不審者というのは、他ならぬこの男のことだ。
 特に何をしたわけでもないが、いつも髪も服もびしょ濡れのままフラフラと徘徊しているため、地域の大人たちに警戒されている。
 湊がこの男と関わるようになったのは、もう三ヶ月くらい前のことだ。
 仕事で忙しくてほとんど帰ってこない両親は予想もしないだろう。
 17歳の娘がまさか、不審者と噂される男をたびたび家に上げてシャワーを貸し出しているだなんて。
 きっかけは簡単。コンビニで彼が濡れたまま歩き回り、バイトの店員に注意されているのを見かけたときだ。
 何も言わずにむすっと眉をひそめている(怒っているのではなく、もともとそういう顔なのだ)男が気に入らないのか、高校生くらいに見えたその店員はバイト仲間と一緒になってその男を責め始めた。
 精神異常者なんじゃないか、気持ち悪い、うちのコンビニに来るな、濡れた床を拭け、迷惑だ、警察に突き出すぞだのなんだの。
 子供みたいに厭味たらしく陰鬱に罵って下品な笑いを上げる光景は見ていて気持ちのいいものではなく、素通りできなかった湊は黙っている男の腕を掴んで輪の中から引っ張り出した。
 店員が玩具を取り上げられたみたいに不満そうな顔をしたが、それに呼び止められるより先に、男をコンビニから連れ出した。

「でかい図体して、何か言い返しなさいよ」

 中学時代には一時期そっちの道に走ったこともあった湊だ。
 馬鹿にされて言い返すこともできないような人間を見ていると無性に腹が立った。
 思わず叱咤して振り向くと、男は長身を丸めて片手で口を覆っている。心なしか顔色が悪い。

「……気持ち悪い」

「え、」

 男は低い声で呟いて、湊が言いかけたのと同時にその場で嘔吐した。
 湊は呆気にとられながらもぐったりとした男を放っておくこともできず、手早く吐瀉物を処理して、フラフラになった男を細い身体に半ば担ぐ形で家まで連れ帰った。
 思い返せば、見知らぬ男によくあそこまでしてやったと思う。
 風呂、とうわごとで何度も繰り返すのでとりあえず希望通り風呂場に押し込んでやると、シャワーを浴びて出てきた頃にはすっきりとした顔をしていた。
 聞けば男は飴屋理人という大学生で、極度の潔癖症なのだという。
 身体に少しでも慣れない何かが触れるだけで気持ち悪くて、吐瀉したりめまいがしたりするらしい。
 さっきも湊に腕を掴まれたために気分が悪くなったとか。
 何度も風呂に入らなければ気が済まないらしく、いつもびしょ濡れで町を徘徊するのはその都度ちゃんと髪を乾かして身体を拭かないからだ。
 服のまま入って髪だけ洗って濡れたまま出てくるなんてこともあったりして、その神経が普通でないことには変わりないが、少なくとも地域で警戒されている不審者に害はなかった。
 変な奴だ、とは思ったものの湊はたいして抵抗なく彼の性癖を受け入れ、それからは何の縁があってか、飴屋を見かけることが多くなった。
 しかも大抵の場合、何か面倒なことに巻き込まれている。
 それをフォローして連れ帰って風呂を貸してやるのが一連のやりとりになっていて、最近では何もなくとも飴屋のほうから「風呂」と訪ねて来るほどだ。
 彼の潔癖症は気分的なものらしく、いまは少しくらい湊が触れたって「慣れた」と言って動じない。
 最初は嫌がって受けつけなかった湊の家の水や食料も、いまでは図々しいくらいに消費している。
 無口で無愛想なところは相変わらずだが懐かれてはいるらしく、湊の言うことも大概素直に聞くようになった。
 そうなると何だかペットのようで、自然と愛着も湧くというものだ。
 もっとも、湊はそれ以前に異性として飴屋を慕っているわけだが。

「飴屋さんの潔癖症って、小さい頃から?」

 小学生のときとかはどうしてたんだろう。
 湊はふと疑問に思って、水で口を潤すと聞いてみた。
 飴屋は煙草をくゆらせながらちらりとこちらを見る。
 この目が、好きだ。
 いつも仏頂面でだるそうにしていて、だけどこの瞳はいつも、はっとするくらい強い光を持っている。
 視線だけで相手をすべてを見透かしてしまうような、見つめた相手をどきっとさせる力がある。

「高二」

 飴屋はぶっきらぼうにそう答えて、静かに煙を吐き出した。
 湊は「ふうん」と相槌を打つ。何で、とは聞かないほうがいいだろうか。

「帰る」

  飴屋は煙草を揉み消すと、不意にそう言って台所を出て行く。
 まだ髪から雫が落ちているのにそのまま外へ出ようとするから、

「髪、乾かしなよ」

 湊が声をかけると、飴屋は少し立ち止まってから洗面所へ入っていった。
 しばらくドライヤーの音が響いて、湊はゆっくりとグラスを傾けながらそれを聞いている。
 やがて音がやむと、飴屋は何も言わずに出て行ってしまった。





  
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