SS
□* 紅
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その日、彼の機嫌がよかった。
普段は不機嫌しか表さない顔も、今日だけは何故か緩んでいた。
それがあの人と過ごした思い出の日によく似ているからか、それとも他に理由があるのか、それは彼自身にも分からない。
だから、普段は存在を確認しただけでも苛々する小早川秀秋が近くに居ても気にならない。
普段なら近くに居るだけで拳を振り上げるところだが、今日に限ってそれは無かった。
小早川はずっと同じ部屋に居た。同じ部屋で、彼に背を向けて、いつも背負っている鍋を綺麗に磨いていた。
可愛らしく天道虫の絵があしらわれた鍋が外から差し込む日の光を反射する。
綺麗に磨けて嬉しいのか、小早川は普段は絶対に彼に向けないであろう子犬のような笑顔を浮かべて、彼に話しかけた。
「今日はなんだか機嫌がいいね、三成くん。」
その笑顔は、普段なら軟弱者の顔にしか見えない。だから、いつもは殴ったり蹴ったり、暴行を加える。
いくら暴行を加えても、小早川は最早、相棒とも呼べる鍋で体を守るので問題はない。
暴行が加えられているのは鍋であって、小早川自身にではないのだから。
「ああ」
短く声を返す。自分自身、どうしてこんなにも機嫌がいいのか理由が思いつかない彼はなんて言葉を返したら分からなかったのだ。
「今日は刑部さんも機嫌がよかったんだ。朝、珍しく僕に話しかけてくれたんだよ」
どうやら、彼の友人も小早川に対して今日は優しかったようだ。
二人共に珍しく機嫌がいいと、かえって不気味だと黒田が言っていたとも、小早川は言った。
なんて失礼な奴なのだろう。次に会ったら懺滅だ。そう彼は思った。
機嫌がいいとしても、普段から愛想のない彼は小早川がふってくる話に対して薄い反応しか返せない。
常人ならば気まずくて、その場を退出しそうなものだが、生憎、小早川に空気は読めない。
ああ、そうか、そんな短い返事さえも、小早川の会話を加速させていく。
やがて鍋を拭き終えた手は完全に止まり、小早川は鍋を拭いていた布を床に置いた。
そして、またも愛らしい笑顔で彼に、それは楽しそうな声で問いかけた。
「ねえ、三成くん。食物連鎖って知ってる?」
体を捩って、小早川の方を向こうとした。
その瞬間、大きくて重い鉄製の鍋が彼の頭に直撃する。
なんの話だ、と動かそうとした口からくぐもった呻き声が溢れた。
銀の髪を少しだけ赤に染めて、彼はその場に倒れた。