その他

□忘却の白百合
1ページ/1ページ

永い時を共にと誓い、流れ去る想いを喰われた。
兄は夫を血に沈め、己もまた地獄へと。
残された女は独り、各地をさ迷う。
もはや脱け殻となった身をたゆたう闇に任せて、ひたりひたり、と。

『市』

愛しき声も今は昔。

「『』様?」

名すらもその記憶に埋もれ、吐くこと叶わず、口を閉ざす。
夢は終わることはない。
現であるがゆえに。





「お市殿?」

積み上げては崩れる石を、なお積み上げる。
飽くこともなく飽くこともなく。
賽の河原の童のように。
積まれた石が音をたて崩れる時、お市は寂しく瞳を濡らす。
うつらぬはずの影が、落ちた石と重なる。
背を向け庇う愛しき姿。
然れど戻らぬ愛しき名。
彼女に向けられた一輪の白百合。
輪郭のぼやけた照れた顔。
失った者。

「お市殿!」

「…………なぁに?」

「夕餉の支度ができたんだ。そろそろ戻ろう」

「…………」

「お市殿?」

「……」

夕陽に背を、宵闇がせまる。
まるで、光を滅するように。
かつての光は闇に呑まれた。
失いたくはない、と彼女は怯えた。
答えぬ彼女に呼びかける声。
男は虚空を見詰め、動かないお市に不安げに眼差しを向けた。
彼女を見つけた時には、既にこの有り様だった。
何も知らず、何も思い出せず、残酷な現実に押し潰されたまま、化楽と呼ばれ、いわれぬ排斥に嘆く。
織田信長の名は今でもなお彼女を縛りつけた。

「『』様?」

「……」

唯一、彼女を一人の女として、妻として愛した男はもういない。
欠けた記憶に彼の名はなく、呟く声は掻き消える。
思い出したい彼の名前。
忘れていたい彼の名前。
相反する想いに、市はどうすることもなく、ただそこにあるだけ。

「帰ろう、お市殿」

「……」

明けぬ夜はないと誰かは言う。
彼女の中のいつかの夜明けが訪れることを、男は願った。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ