スプラッシュ・タイム
□【2】
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そう言われた飯島も満更ではなく、もっと坂崎のために頑張ろうという気になってくる。
「では、やってみましょうか」
飯島の声に、坂崎が始めた。
今度は壁を蹴るため、先ほどよりも推進力がつき、坂崎が飯島の横を過ぎていく。
飯島はついその坂崎の背中に見蕩れた。
余分な脂肪もなく、均整の取れた肉づき。
ずっと水泳をやってきた飯島が知る背中とは、また違う筋肉のつき方だった。
そして臀部から大腿、ふくらはぎと、しなやかな下半身。
飯島は、息を止めていたわけでもないのに、息苦しさを覚える。
「コーチ、どうでした?」
もうこれ以上は息が続かないと坂崎が立ち上がり、飯島のほうに振り返る。
「あ…、い、いいですね。よかったです」
見ていた背中が胸部になり、その上には当たり前だが坂崎の顔がある。
なぜかそれが眩しくて、目線を遠くに移した。
「――け伸びのフォームが泳ぎの基本ですから。これをしっかりやって、ストリームラインをマスターしましょう。その場所から底を蹴ってやってください」
ストリームラインは水中で最も抵抗の少ないといわれる流線型姿勢のことだ。
伸ばした手の先から、背中、そして足の裏までが一直線になっていなければならない。
「はい」
自分から離れていく坂崎がけ伸びを繰り返しコースの端まで行き、そしてまた戻ってくる。
坂崎のその熱心さに、指導にも熱が入る。
飯島は坂崎に深く好感を持っていった。
坂崎の指導が終わった飯島は、着替えを済ましスタッフルームで日報を書いていた。
最近、坂崎との時間を楽しみにしている自分に飯島は気づく。
「悪い人じゃなさそうだし、練習は一所懸命だよね。いいよな、そういう人は。教え甲斐もある」
書き上げた日報を上司の机の上に置き、スタッフルームを後にする。
あとは帰って休むだけだった。
「あ、済みません、コーチ。よかった――」
部屋を出たところで呼び止められた。
飯島は立ち止まる。
「何でしょうか?」
先ほど隣のコースを泳いでいた男だった。
タオルを首にかけトレーニングウェアを着ている男は、手にしていた携帯電話を飯島に差し出した。
「あのこれ、忘れ物です。今フロントに持って行こうと思ったんですけど。ロッカールームのテーブルの上にあったんです。多分先ほどプールでコーチが指導してらした方のじゃないかって」
「あ…、そうですか。分かりました。では私のほうでお預かりして、フロントに届けておきます」
飯島はそう言って携帯電話を受け取った。