スプラッシュ・タイム

□【4】
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「今日、坂崎さん、来ないのか……」

携帯を届けた日以来、初めての個人指導の日だった。フロントからの連絡で、仕事の都合で休むことを知った。

坂崎が練習を休むなど初めてだった。

飯島はほっとしたような、それでいて残念な、複雑な思いを持て余す。

「仕事、忙しいんだろうな」

あの日も、会議が長引いてしまったと言って、待ち合わせた時間には来られなかったぐらいだ。
今日も仕事が延びているのかもしれない。

ぽっかり空いてしまった時間をどうしようかスタッフルームで考えていた。
プールで指導するばかりが仕事ではない。
しかしこのまま部屋にいても落ち着かないと、プールに向かった。

ロープで仕切られた水泳指導用のコース。
いつもならそこで教える。
だが今日はその坂崎はいない。

プールサイドで準備運動を済ませた飯島は、飛び込み台から水中に飛び込んだ。
肌を過ぎていく水が気持ち良かった。

坂崎に会いたいと思うのは、正直な気持ちだった。
しかし、会ってどうしたらいいのか分からない。
それどころかこれまでどおり、水泳指導を出来るのかさえ、不安になる。
こんなことではコーチ失格だ。

プールでの坂崎はどこか情けなくもあったのに、会社での坂崎はあんなにもピシッと決めて――。

「カッコ良かった……」

肺に吸い込んでいた空気を一気に吐き出し、飯島は頭を上げ立ち上がる。
だが勢いがつき過ぎたせいで軽く目眩を覚える。

「バカだな、俺……」

坂崎を意識したところで、しょせん自分はクラブのコーチでしかないのだ。
泳げるようになれば終わる関係だ。
ましてや坂崎が途中でクラブを退会してしまったら。

たとえ、個人の連絡先を知っているからといっても、それでどうなるというのだ。
用もないのに、会いたいからというだけで自分から連絡出来るものではないのだ。

「ったく、なんて女々しいんだよ」

それを恋と意識したばかりの心は臆病にさせる。

飯島は息を吸い込むと、またその場から水底を蹴って泳ぎ始めた。
くたくたに疲れて何も考えられなくなるまで、往復を繰り返した。
 
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