スプラッシュ・タイム
□【3】
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翌日、飯島はT町の地下鉄の駅を上がり、坂崎と待ち合わせた和食の店に向かった。
この町の手前にある繁華街までしか飯島は来たことがなく、ここまで足を伸ばすのは初めてだった。
そして「喜音家(きねや)」という名の店は坂崎の説明どおりで、すぐに分かった。
店の前で所在なげに待つが、約束の時間を過ぎても坂崎は現れない。
昼時となった店が混み始め出した。
店に入って待っていてくれるよう言われていたが、一人で待つ気にはなれなかった。
慣れていない町で、見知らぬ店に入るには勇気がいる。
しかし、だたぼうっと店先で待つのも落ち着かず、この近くだと聞いていた坂崎の勤め先に行ってみることにする。
「ここから近いって言っていたし」
坂崎の会社がどんなところか、サラリーマンというものを経験したことがない飯島は、興味も少しあった。
繊維問屋街として、T町は古くからあり、四‐五階までほどのビルが立ち並ぶ中、白い十階建てのビルがすぐに目に入る。
それが、坂崎が勤務する会社だった。ビルの前まで行き、社名を確かめれば間違いない。
「うそ、こんなに大きいのか?」
飯島はそびえるビルを見上げた。
婦人衣料を扱うという坂崎の会社は、その一階のショー・ウィンドーには、流行の衣服をまとったマネキンがディスプレイされている。
入り口のガラスドア越しには受付が見えていた。
飯島はすっかり気後れしてくる。
「早まったのかな。なんか場違いって感じ」
ブルゾンに細身のジーンズと今どきの若者らしい格好なのだが、そのカジュアルさはオフィスには似合わない。
まるで自分が田舎から出てきたばかりの若造のように思えてならなかった。
会社玄関の脇で中から出てくる人を窺いながら坂崎が出てこないかと待つ。
手に財布を持った女子社員が数人笑顔で話しながら出てくるのをやり過ごした。
このまま帰ろうかと一瞬思う。
だがそれでは坂崎の携帯電話を届けられない。
昨夜の坂崎の困った声が脳裏でよみがえる。
「やっぱ、届けないとな」
昨日の電話で、坂崎が午前中会議があると言っていたことを思い出す。
出来れば手渡したいが忙しいようなら、受付で預かってくれないだろうか。
飯島はそのビルの受付に向かった。
受付にいた女性社員が飯島を迎える。
「済みません、坂崎さんをお願いしたいのですが」