スプラッシュ・タイム

□【1】
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市街地からJR線で十五分。
次の駅で隣の市に入るというO駅にスポーツジム、フィットネス・アクアのビルはあった。
アクア、とスイミングを髣髴させる名を冠しているのは、もとはスイミングスクールから始めたという名残だ。
今は、プールはもちろんのことだが、ジム設備もあり、ダンス、エアロビクス用のスタジオも有している、総合スポーツクラブだった。

その一階にあるプールはO駅に隣接していることもあって、ホームから中の様子がよく見えた。
おかげで電車待ちの人が、興味を惹かれて入会するケースがままある。

飯島則之(いいじまのりゆき)は水泳コーチとして、このフィットネス・アクアに入って四年。
スポーツ指導員としての必要な資格は体育大在学中に取得し、若手コーチとして実績を積んでいた。

そんな飯島も、今日で二回目の一般初心者クラスの坂崎隆彦(さかさきたかひこ)を前に、そっと嘆息する。

日もとっぷり暮れた駅のホームでは、皓々とついた照明が仕事帰りの会社員やOLの姿を浮かび上がらせていた。

「坂崎さん、力を抜いてください」

坂崎の年齢は三十八歳。
コーチ用のパーソナルカードにはそう記載されていた。

男女問わず、自分より一回りも上の人間に教えることは、これが初めてではない。
今も坂崎よりも上のシニアのクラスも受け持っているし、初めて水に接するような低年齢層にも教えている。

坂崎も初めは何も問題なく課題をクリアしていった。
泳ぎの基礎の基礎とはいえ、プールサイドに腰かけてするキックも、顔を水につけ息を吐くことも出来た。
プールサイドの壁につかまり体を水に浮かせるということも、少し硬くなっているとは思ったが、これもクリアした。

だが次の、その手を壁から離して水に浮く、伏し浮きの段になって様相は一変した。
手が離れた途端、手足をばたつかせ、沈んでしまうのだった。

坂崎のカードには、「泳げない」と記載されてはいた。
だがプールに現れた坂崎を見て、ここまでだとは想像していなかった。
坂崎はわりに鍛えられた体躯をしており、何かしらの運動をしていたようだと窺えたからだ。

それに人間には浮力があり、水よりも軽い比重なのだから、力を抜きじっとしていれば何もしなくても浮く。

しかし、坂崎は違った。

「人は水に沈みませんから。慌てなくても大丈夫です。力を抜いてリラックスしてください」

飯島の言葉は坂崎には聞こえないようだ。
別に足をついても構わないのだが、沈んでいく体を何とかしようと、手足を盛んに動かす。
それが却って沈む要因となっていた。

さすがにこれはまずいと飯島は手を伸ばす。
ここで水に対して妙な恐怖心など持ってもらっては困るからだ。

 
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