災い転じて恋をして

□8.
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 玉木は急いだ。地下鉄に乗り、少しだけ通い慣れた道を行く。
 温田に言われるまでもなく、自分が酔っていることは自覚していた。だからこそ、取れた行動だったかもしれない。
 マンションエントランスのインターフォンで樫原の部屋の番号を押す。しばらくして、応答があった。
「課長、玉木です」
「玉木? 今開けるから。玄関は開いているからそのまま入ってくるといい」
 樫原の声音は、いきなりの訪問のせいか戸惑いが滲んでいた。
 住居スペースを仕切るガラスのドアが、左右に開く。それが完全に開き切る前に身を滑り込ませ、エレベーターで樫原の部屋に向かった。
 閉じられた玄関ドアの前で小さく頷き、玉木はノブに手をかけた。ドアがガチャリと音を立てて開く。言ったとおり、施錠されていなかった。
 数日ぶりの樫原の部屋。少し馴染み出していた空気が出迎える。
 しかし部屋は上がり口からして以前よりいっそう、家捜しでもしているのかと思うほど散らかっていた。いくつか組み立てられた段ボールの箱が口を開けて物を入れるばかりになっている。
「引っ越しでもするんですか、その荷物」
 あまりの様子に、玉木の口からつい思ったままの言葉が出る。
「いや、いい加減に片づけないと、と思ってね――で、どうしたんだ? こんな時間に」
 何の用だ、と問う樫原に、玉木は一呼吸おいて言った。
「確かめに来たんです。自分の気持ちを」
「自分の気持ち?」
「課長のことが気になるんです。だから、これがどういうことなのか」
「――酔っぱらっているようだね」
 玉木は生ビールをジョッキ二杯飲んできたことを正直に告げる。
「温田さんに好きな人いないのか、と言われて課長が浮かんだんです。そしたらワケ分かんなくなって。ずっと課長のことは尊敬していたし、だからだって思っていたのに」
「玉木? 自分が何言ってるのか、分かってるか?」
 玉木を見る樫原が、数回瞬きをする。
「分かってます。でも、自分がどういう気持ちで、課長のこと好きなのか分かんないんです。だからキスさせてください」
 樫原が、手にしていた本を落とした。
「……こんな何もできない、仕事しか脳のない俺を好きだなんて。いや、君のような若い子に慕われるというのは嬉しいものだ」
 キスには触れず茶化すように言われ、玉木は自分のことは棚に上げて、苛立たしくなる。
「初めは。部下として、課長の下について仕事ができるのが嬉しかった。帰る部屋がなくなって、家に泊めてもらえたとき、一緒に出張行っていてよかったと思いました」
 少し、いや、まったく家事ができなくても、構わなかった。 
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