災い転じて恋をして

□3.
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 定時になり、退社時間が過ぎても玉木は迷っていた。今夜も樫原の家に泊めてもらうかどうか、だ。
 先のことを思えば、金のかかるホテルを利用するのも正直いって考えものだった。一時的にしろ、実家に戻ることも考えないではないが、隣県とはいえS県からこのN市まで通勤するのは大変なものだ。
 何にしても、と玉木の口から溜め息が出た。
 これから部屋を探し、家財道具をまた一から揃えなければならない。まだパソコンのローンも残っている。
「物がなくなりましたからって、ローンもなくなるわけじゃないしな」
 損得勘定だけで身の振り方を考えるのも虚しいが、サラリーマン二年目、大して貯えのない身には背に腹はかえられない部分があった。
「ここにいたのか、玉木」
「課長」
 営業部の自席にいる玉木のもとに、その樫原が来る。
「悪いな、今夜は営業会議が入ってね。これ渡しておくから、先に帰っていてくれ。部屋にあるものは適当に使って構わないから」
「はあ」
 鍵を手渡された。どこの、など考えるまでもなく、樫原のマンションの鍵だ。
「家、分かるかな。もし迷うようならタクシー使っていいから」
「そんな、とんでもないです。分かります。高代駅からすぐでしたし」
 慌てて玉木は立ち上がった。上司にそこまで言われて、今さら「遠慮します」とはもう言えない。玉木は受け取った鍵をブリーフケースにしまった。
「何か適当に食べて帰りなさい。私も食べて帰るから」
 樫原が内ポケットからサイフを取り出すと一万円札を玉木に渡してきた。
「課長っ」
「いいから。何だか申し訳なくてね、君には。出張に出た日にあんなことになって」
「いえ、そんな、関係ないですよ」
 いきなり見舞われてしまった災難だが、樫原にはまったく関係のないことだ。
「ま、受け取っておきなさい。あとは仕事で返してくれればいいから」
「済みません。いろいろ、ご心配おかけして」
 玉木は肩を竦めて恐縮した。
 本当に皆が噂するとおりの面倒見のよさだった。それにこれも皆が言うとおり、スーツをきりっと着こなした樫原は、改めていうまでもなく見目もいい。
 だからどうしてプライベートがああなのか、結びつかなかった。
「遅くなるかもしれないから、気にせず先に休んでいてくれ」
「はい」
 そう言って会議に向う樫原の背中を玉木は見送る。
「考えても仕方ないな。今夜も課長のところで世話になろう」
 せっかくの樫原の好意を無にすることはないのだ。部屋のことは気にしなければいい。
「でもさ、埃はちょっと……かもしれない」
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