幕恋hours short
□御狐綺譚
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それは、秋も深まりつつある夕暮れのこと。
落ちる陽に急かされるように寺田屋への帰途をいそいでいたわたしは、遠くで高く響く音曲のようなものが耳に届くのに気づきふと歩みを止めた。
(・・・笛?)
「どうした、足が痛くなったかの」
先を歩いていた龍馬さんが振り返って心配そうに尋ねてくれた。まだこの時代の人ほど下駄や草履に慣れていないわたしは、少しの遠出でも豆を作ったり靴擦れを起こしていたので、いつも心配をかけてしまう。
「龍馬さん、何か聞こえませんか?」
「?」
不思議そうに、でも素直に首を傾げて龍馬さんは耳を澄ませた。けれど本当にかすかなその音は、わたしにも実際に聞こえたのか自信がなかった。
もう一度、目を閉じてみる。
何かを手繰り寄せるように神経を集中させてその音色を追いかけると、一瞬ふわりと足元が浮き立つような感覚に襲われた。
「・・・深雪!祭りじゃ」
龍馬さんの声にはっとする。
すると、目の前に突然飛び込んできた光景は――――――――――。
無数の提灯と、篝火の炎。普段の薄暗い夜からはかけ離れた光の洪水に、息を飲んだ。
「なに・・・これ・・・?」
今の今まで、ここは夕闇が迫る山道だった。龍馬さんと出かけた帰り、わたしをこの時代へと運んだあの神社に寄ってお参りをしての帰路。どう考えてもこんな灯りは見当たらなかった。
「・・龍馬さん」
不安に駆られて傍に立つ龍馬さんの袂を掴んだわたしは、その顔を見上げて再び驚いた。
そこに立つのは、白地に鮮やかな色彩で狐の顔を描いた昔ながらのお面を被る龍馬さん。くせっ毛や、羽織の紋で龍馬さんと認識できるけど、いったい何時の間に?
「今夜は祭りか。深雪、おんし祭りが好きじゃったろう」
声はいつもの龍馬さんなのに、顔がみえないだけでなぜ、こんなに胸がざわめくのだろう。
「龍馬さん、なんでそんなお面をつけているの?いつ・・・」
「祭りに、面はつきものじゃろ」
くぐもった声で龍馬さんが笑う。でもその姿と、一変した状況にますますわたしの胸は不安でいっぱいになる。
この人は、本当に龍馬さんなの?
当たり前のことが、不意にくらりと足元が崩れるように心許なくなる。
無意識にお面を外そうと伸ばした手が、龍馬さんに掴まれ、そのままぐっと抱き寄せられた。
あまり強引なスキンシップを普段しない龍馬さんの、その抱擁はあまりに突然で驚きを隠せず、わたしは思わずその胸を押し返してしまった。
「どうしたがじゃ、深雪」
「龍馬さん、変です」
「どこが変なんじゃ」
お面越しに笑う姿もどこか違和感を感じて、わたしは腰に回された手を振り払うとゆっくり後ずさった。
いつのまに、こんなことになってしまったんだろう。
さらに伸ばされた龍馬さんの手に怯えて顔を背けたとき、背中が温かい体温に包まれ、わたしははっと振り返った。
「こら、深雪を困らせたらいかんじゃろう」
「りょ、龍馬さん!?」
後ろに立っていたのは、もう一人の龍馬さんだった。やっぱり狐のお面を被っているけど、声も背格好も同じ。
二人の龍馬さんに挟まれて混乱するわたしに、後から現れた龍馬さんは気の毒そうに声をかける。
「深雪、驚かせてすまんのう。何やら厄介なことになってしもうた」
「・・・あなた、本物?」
「どっちも本物じゃ」
ちょっと不満そうに強引な龍馬さんが間に割ってはいる。
「本物じゃが、ワシはこいつみたいに我慢ばかりするのに飽き飽きしたんじゃ。のう深雪、体裁ばかり取り繕う男と、本音しか言わん男、おんしならどっちを選ぶ?」
「えっ?」
「いつまでたってもおんしを未来に帰さなかった事を気にして、自分が幸せにできるか未だに迷っちょる。女なんぞ抱いて可愛がってやれば済むだけの話じゃと言うに」
にやにやと笑いながら強引な龍馬さんが馬鹿にしたように言う。
「狐狸の類か。悪戯も過ぎると仕置をせにゃならん」
同じ顔で同じ背丈でにらみ合う二人に、どうしていいのかわからずわたしは途方に暮れてしまった。
「しかし、おんしの言うことも一理あるかもしれん。さっきの神社でも、ワシは祈りながら迷うちょった」
「龍馬さん?」
その言葉に、思わず龍馬さんの顔を見上げると、彼はわたしの目を見て優しく笑った。
「だからかのう。こんな風につけ込まれるようじゃワシもまだまだじゃ」
そう、言い捨てると龍馬さんはやにわに腰の刀を抜いた。
ひゅうと風を切る鉄の音に、咄嗟に目を瞑る。まさか、と信じられない思いが脳裏に渦巻いた。刀を抜くのを嫌う龍馬さんが、なぜ?
「さて、どうする?」
正眼に構えた龍馬さんは、小刻みに剣先を震わせながらにやりと笑った。
「どうするも何も……おんし自分を斬るつもりか」
強気な方の龍馬さんは少し焦ったように切っ先を見つめた。後ろにいても龍馬さんの背中から痛いほど張り詰めた気が伝わって、わたしは思わず身を固くした。
そして、空気が沈み込むように、一瞬気配が消える。
カツン
かすかな音とともに、今まで煌々とあたりを照らしていた灯りがふっと消える。
その刹那、身を翻して走り去る龍馬さんの後ろ姿が目の端に映った……気がした。
「やはり、物の怪じゃったかの」
気づけば、辺りは元通りの薄暗い山道に戻っていた。目の前には刀を収めて、いつもどおりの優しい微笑を浮かべる龍馬さん。
あまりにも不思議な出来事に、気の緩みも手伝ってわたしは龍馬さんに体当たりするように抱きついていた。
「すまん、怖い思いをさせてしもうたな」
温かい、大きな手のひらに頭を撫でられて、ほっとする。
足元には二つに割れた狐面が転がっていた。
「……迷っていてもいい、自信がなくたって構いません。わたしはどんな龍馬さんでもついていきます。だからここに残ったんですから」
抱きしめ合いながらそう告げると、龍馬さんは頭を撫でていた手を一瞬止めた。
「ずっと、一緒に歩いていきましょう」
抱き合う腕に力をこめた龍馬さんが、無言で頷く気配だけを感じ、わたしはこの不思議な悪戯に、少しだけ感謝した。
了
2014.7.16