幕恋hours short

□帰らない
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もうあと一日二日で満月という晩。




深雪は盆の上に錫(すず)の酒器と京塗りの器を乗せて、薩摩藩邸で一番庭の眺めの良い縁側へと向かっていた。

酒器には人肌に温めた上等の酒が入っている。
味はもちろん香りにもうるさい大久保が、わざわざ指定している組み合わせだった。

『錫は酒の香りを膨らませる』

そんなことを言っていたっけ、と深雪はぼんやり考えていた。
好みがうるさいのはお茶だけじゃないんだ、と可笑しくなる。



「お待たせしました」

「・・・遅い」



少々不機嫌そうな声音に、ほんの少し微笑む。





薩摩藩邸へは、大久保の強い誘いがあり、身を寄せることになった。
同盟が成立したことを薄々感づいた幕府方の追求がますます厳しくなり、龍馬たちも今後のことを思い深雪を寺田屋に置いておくことを断念した。

もちろん深雪は一人だけ安全な場所に行く事を拒んだが、足手まといになっては元も子もないと武市に諭され、大久保の元に来た。




盆を置いて大久保の横に座り、手に取った塗りの杯にそっと錫の酒器を傾ける。

注がれた琥珀色の酒をくっと煽った大久保の、端正な横顔を何とはなしに見つめていると、なぜ大久保はこんなにも自分を気にかけてくれるのかという疑問がわいた。



普段は嫌味を言われたり怒られたりしてばかりだったが、いざと言う時の彼は深雪を守る事に微塵の躊躇もなかった。



「・・・そんな呆けた顔をして、何を考えている」


「呆けてなんて、いません!」


そう答えると、大久保はくくっと笑って杯を突き出す。

「退屈なら、お前も飲むか」

「お生憎さま。私未成年者ですから」

「・・・未来の日本はよほど気楽な世らしい」

「えっ?」

「お前の言う事が本当ならば、二十歳まで子供扱いだということだろう。随分呑気な話じゃないか」

深雪は返す言葉もなく黙り込んだ。確かにみな生き急いでいるようなこの時代から見たら、それは悠長な話なのだろう。


「・・・そこに留まっておれば、こんな思いをせずに済んだものを」


ふっと、頬に温かい感触を覚えて深雪が顔を上げると、大久保の長い指先が頬を撫でていた。

何かを悼むような、憂いを含んだ大久保の目に、捕らえられたように目が逸らせない。



「でも、私は今、ここにいます」


深雪の言葉に、大久保はかすかに目を瞠る。


「ここに来て、龍馬さんや武市さん慎ちゃんに以蔵・・・長州藩の方たち。いろんな人に出会って助けられて・・・怖いことも沢山あったけど、私、後悔はしていません」

「・・・・そう、か」

「もちろん、大久保さんにも会えましたし」

深雪はふふ、と小さく笑った。


「薩摩藩邸に来るのは、始めは厭でした。でも、やっぱり大久保さんが正しかったんですね。私が寺田屋にいたらきっと・・・みんなをもっと危険な目に合わせてしまう」

そこまで言うと、深雪は視線を落とした。大久保から見えたのは、ひどく悲しそうな横顔。




「だから・・・ありがとうございます、大久保さん」


静けさの中、深雪の声だけが夜の空気に染みとおるように響いた。











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